◇ ◇ ◇
玉のような音色を紡いでいた指が不意に止まった。手許へと落ちていた視線が緩く窓の方へと流れ、そうして幾度目になるだろう、深い深い溜め息が零れる。
「役目、…とはいえ。―――お逢いできないのは辛い」
自嘲とも聞こえる声音でぽつりと呟き、右手の親指で弦を撫でる。戸外から伝う音も絶えて久しい深夜、水の守護聖が詰める執務室で、リュミエールは独りハープを弾いていた。
全守護聖に対する執務室待機が解除となってから幾日か経ったある日、現地調査による予測通りに惑星の変調が始まった。当初の予定通りに光と闇の力を付与する一方、研究院では惑星の再観測が行われた。結果、数日後には水と風の力が必要となるだろう、という予測が立てられ、リュミエールは再び執務室で待機する日々を送ることとなった。
しかし惑星は、光と闇の力を相当量受けても安定の兆しを見せなかった。どころか、光と闇の他に必要となる力が新たに判明する等、状況は刻一刻と変化しているようだった。
そのような状況下にあっては、研究院としては総力を挙げて観測と分析に当たらねばならない。当然、地の守護聖にも協力の要請があり、ルヴァは研究院に篭もりきりとなる。そしてリュミエールはというと、惑星の状態がいつ好転するか判らないため執務室を離れられない、という日々が続いていた。
「廊下で擦れ違うことも望めない…かといって、研究院へ行っても邪魔になってしまいますし。…」
慰みに爪弾く手許から、ぽろん、と音が零れた。その上へ、溜め息がふわりと覆い被さっていく。逢いに行く、と約束と取り付けた日はもちろん、今日に至るまで、惑星の現地調査から帰還してきたルヴァとふたりで話をする機会が持てないで居る。それが、リュミエールの気持ちを深く陰らせていた。
弦へと置いていた手を外して、台座を持つ左手と緩く組み合わせ、ハープが膝から落ちてしまわぬようしっかりと抱く。そのまま背もたれへと身体を預けて力を抜き、ゆっくりと目を閉じる。
「ルヴァ、様…」
柔らかく微笑む彼の姿を瞼の裏に描き、小さく名を呟く。少しだけ眠い。本当は寝台へ横になった方がいいのだけれど、このまま少しだけ微睡みたい。そんなことをぼんやり考えながら、リュミエールは暫しの眠りへと意識を委ねた。
◇
『―――リュミエール』
誰かの声が聞こえる。
『こんなところで眠ってしまって…風邪を引いてしまいますよ』
聞き覚えのある声。―――そう、ルヴァの声に似ている。逢いたいと想うあまりに聞こえた幻聴だろうか。それとも夢だろうか。
『…ああ、膝掛けがありますねぇ。無いよりはましでしょう』
何かを掛けてくれる感触と共に彼の気配を強く感じて、思わず手を伸ばす。
「ルヴァ…様…」
『おや、起きていたんですか? ―――ああ、そんなに強く引っ張らないでください、倒れてしまいます』
くすくすと笑う声に、少しだけ眉根を顰める。夢とはいえせっかく逢えたのに、つれないことを言わないで欲しい。もっと近くに来て欲しい。そう想いながらリュミエールは伸ばした腕が掴んだ身体を抱き寄せ、その胸許に貌を埋める。
『…なんだか、子供のようですよ。久しぶりだから、ですかねぇ』
本当に久しぶりだった。優しい声を間近に聴くのも、愛おしい彼の、その身体に触れるのも。耳がその響きを確かに覚えている。腕がその感触を確かに覚えている。
『ねぇ、リュミエール。…せっかく逢いに来たのですから、貌を見せてください』
せっかく、逢いに。そう彼の声が告げた。その響きも、腕が伝えるこの感触も、夢にしては妙にはっきりとしている。
―――明瞭過ぎる。
「!!」
リュミエールは飛び起きるようにして貌を上げ、瞼を瞬かせた。
「―――おはようございます、リュミエール。…とはいっても、まだ真夜中ですけれど」
くすくすと懐かしい笑顔で目を細める目の前の人は、誰あろうルヴァその人だった。
「ルヴァ様…! どうして、此処に…」
「説明しますから、まずはこの腕を放して戴けませんか? 中腰の侭は、ちょっと辛いです」
言われて初めて、酷く半端な態勢のまま彼を抱き締めてしまっていたことに気付く。慌てて手を離すと、ありがとうございます、と緩く微笑んで、ルヴァは手近な椅子を引き寄せ傍に腰を下ろした。
「惑星の状態が漸く安定しました。明日から次の段階へ移ることができます。万が一の事態に備えて―――観測室には研究員の方々が数名詰めてくれていますから、明日の朝までですが、少しだけ時間ができたので。…貴方に、逢いにきました」
言葉ひとつひとつを噛み締めるように聞き、肘掛けに添えられた彼の手を取って、しっかりと握りしめる。
「ルヴァ様…」
地の守護聖にとって真理の追求は、何よりも優先されるべきものとして位置付けられることが多い。その傾倒振りは最早『習性』と言ってしまっても過言ではないのではないか、と思う時がある。
その最中にあってなお、気に掛けてくれていた、という事実が、リュミエールにとっては何にも増して嬉しいことだった。
「ありがとうございます…お疲れですのに、わざわざ来て下さって―――」
「いいんですよ、…今回の件で暫く忙しくしていて、ゆっくり話をする時間も取れませんでしたから」
握り返してくれる手の平を片方そっと外し、白い頬へと手を伸ばす。
「ずっと、逢えなくて…とても逢いたくて。―――最初、夢に出てきて下さったのかと思いました」
そう告げるとルヴァはまた小さく微笑って、頬に添えられたリュミエールの手の平へと貌を寄せた。
「本物、ですよ。…温かいでしょう?」
「はい…」
親指を僅かにずらして頬を撫で、薬指と小指を頤の縁へとかけて、貌を傾ける。リュミエールのその所作に気付いたルヴァが緩く瞼を伏せ、合わせるように僅か貌を傾けた。
触れる唇の縁から、融けてしまいそうな痺れが伝う。薄い唇を柔らかに啄み、ターバンの縁から覗く髪を指先で弄びながら、角度を変えてもう一度口付ける。
「…紅茶を淹れましょう。―――焼き菓子も一緒に」
ほう、と浮いた吐息をつきながら、ルヴァが頷く。
「明日からまた忙しいでしょうから、…少し勿体ない気もしますが、お話は少しにして、余り遅くならないうちに休みましょう」
「そう…です、ね」
紅茶の用意をしようとして戸棚へ向かおうとしたリュミエールは、少しだけ沈むルヴァの声に気付いて振り返った。
傍へと歩み寄って膝を折り、膝に置かれた両手へ己が両手を重ねて、ルヴァの貌を見上げる。
「設えてある寝台は、ひとりで眠るには大きいですから…良かったら、ルヴァ様も一緒に」
言うや、ルヴァの頬に差していた朱が少しだけ濃くなった。嬉しそうに頷く姿に目を細め、緩く浮かぶ笑みに微笑み返す。
久しぶりの肌に触れるのは、もう少し先まで待っていよう、とリュミエールは思う。
「ルヴァ様、レモンとミルクはどうなさいますか」
「そうですねぇ…夜も遅いですから、ミルクをお願いします」
「判りました。…少しお待ち下さいね」
久しぶりの穏やかな空気を愉しみながら、リュミエールはティーポットを戸棚から取り出した。
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