道 程

〜 2 〜






 手元に置いた専用の湯飲みを手に取り、吹き冷ましながらルヴァもひとくち含む。喉を潤していく感覚に頬を緩め、ひとつ息をついた。
「ところで、御話というのは一体なんですか?」
 その一言で、何処か落ち着かない様子で居たエルンストの表情が一変した。ある意味無表情とも取れるような、真面目な貌。それを感じ取ったのか、青鈍の瞳の色も冴えたそれへと変化した。かちゃ、と小さい音を立てて、エルンストの手からカップが離れる。膝へと消えていく腕の動きは、まるでスローモーションのよう。
 真っ直ぐ伸ばされた背筋に、真剣な瞳。見つめるその瞳には僅かな漣。ふっと惑いが影を落とすと、エルンストの視線が揺らいだ。なかなか開かれない唇に、ルヴァが微かに首を傾げる。
「………ぃが…」
「……え…?」
 ようやく動いた唇が発した音を聞き逃し、青鈍の瞳が短く問い返す。テーブルに視線を落としたまま、溜息に似た吐息を漏らす。覚悟したような表情を覗かせて、エルンストは視線を上げた。
「新宇宙が……数日中に、臨界を迎えます」
「……!」
 一瞬、時が止まった。表情を変えず、さらに言葉が流れる。
「今朝方、研究院の電算機がそのような答をはじき出しました。幾度も試算検算をしましたが、いずれも同じ結果でした」
 蒼の髪が言葉を失う。取り繕うような笑みを浮かべると、視線を泳がせ言葉にならない言葉を零した。
 目の前でこくりと頷く彼の姿が、現実感を失っていくように見えた。
「…そ…う、ですか……」
 それだけ言うと、あらぬ方向へ視線を泳がせたまま口を噤んでしまう。思いの他白い手が椅子の肘掛を力の限りに握り締めてさらに白くなっていく様を、色素の薄い瞳が眼鏡越しに見つめていた。


 冴え冴えとした静寂。部屋の時計の針が空しく時間を刻む音が、やけに大きく聞こえる。長いのか短いのか判らないくらいの沈黙が部屋を支配していた。
「………どちらが、新宇宙の女王に…なる、のでしょうかねぇ……」
「…ルヴァ様」
 楽しみですね、と言おうとしたルヴァの台詞を遮るようにして、エルンストが口を開いた。語尾を取られるまま貌を上げてしまう。絡みつく、視線。
「研究院が女王試験終了と同時に閉鎖されるのは……御存知かと思います」
 肯定の頷きを返すルヴァを変わらず見つめながら、さらに言葉を重ねる。
「同様に、学芸館も閉鎖されることになります」
 僅かに眉を顰める以外の表情は見せず、淡々と流れる言葉を聞く。肘掛を掴む手は、未だそのまま。その手の色と同調するかのように、ルヴァの顔色も不自然なくらい白くなっていた。
「当然、試験のため召集されていた者は皆、それぞれの惑星に帰還します」
 恐ろしいほど静かな部屋の中響くのは、エルンストの声と……淡々と時を刻む時計の針の音、だけ。
「わたしはもとより、メルも、商人の方も……」
 無理矢理視線を外したのは、ルヴァだった。俯いた貌は、僅かに唇を噛んでいるように見えた。言葉は止まらず、さらに紡がれる。
「教官方も、それぞれの星へ帰還なさるでしょう」
「そう…なる、でしょう…ね……」
 ようやく漏れたのは存外掠れた声。ほとんど崩れない表情に、眼鏡の奥の瞳がすうっと細められた。


 再び流れる静寂。テーブルの下、エルンストの膝の上で、ぐっと握りこぶしが作られる。きつく、きつく、握り締められる、手。
「どう……なさるのですか」
 不意に、視線が合わせられる。無表情。けれど……何処かが、先刻のそれとは違っていた。雰囲気。物腰。瞳の色。何かが、違う。
「どう、とは…?」
 あまりに落ち着いた声に、初めてエルンストの眉が顰められた。引き気味にしていた頤を上がり、探るような視線が遠慮なしに突き刺さる。
「ヴィクトールのことです」
 幾分強い語調に、ルヴァの瞳が揺れた。視線を外してまた唇を噛む。
「……なにも」
 目を伏せたまま、ゆるゆると首を振り呟く。自嘲。諦念。思いの深さをそのまま乗せた声音。視線を泳がせたまま、ゆっくりと微笑う。儚さと脆さを包含した表情が、湧き上がるように現れた。


 消えてしまいそうな風情に、エルンストは何も言うことができなかった。


 かたん、と椅子から立ち上がるルヴァを、呆けたように見上げる。
「……臨界の連絡、ありがとうございました」
 言葉が戻らず、首を振ってその台詞に応える。にこりと微笑むその表情が、あまりに穏やかで。
「引き止めてしまって…済みませんでした」
 かけられた言葉の意図を推し量り、慌てて立ち上がる。がたん、と音を立ててしまった椅子を元のように直し、来たときと同じように深々と頭を下げた。
「…申し訳ありませんでした。差し出がましい事、致しまして………」
「あ〜、その……気にしないで、くださいね…」
 無理矢理にも見える表情に、胸が酷く痛んだ。扉の前でもう一度頭を下げ退出しようとすると、ふとルヴァに呼び止められた。
「また、資料を戴きに行きますから……よろしく、お願いしますね」
「わかりました。…お待ちしています」
 軽く会釈をして、今度こそ地の守護聖の執務室を後にする。


 重い扉を閉め、廊下にエルンストはひとり佇む。直ぐにその場を離れようとせず、そのまま閉じた扉を見つめ続けた。
「……痛い、です…」
 誰も居ない廊下に、ぽつりと言葉が落とされる。
「貴方方を見ていると……痛過ぎます…」
 眼鏡を外し、片手で目元を押さえる。ふる、と頭を振ると、手にした眼鏡を胸元に仕舞いながら、静かにエルンストは立ち去っていった。





前のページ 次のページ





御品書