これほど沈む彼を、見たことはなかった。
先の女王試験終了の際、好意で声を掛けてくれた彼の言葉を半ばやつあたりのように切って捨てたときも、なにもかもが厭になってただ流されるままに生きていた自分が度々首座とぶつかったときも。今、目の前で言葉を無くし、ただ呆然としている彼ほどには、沈んではいなかった。
「……ルヴァ、このままここに居ると風邪をひくぞ」
「ああ……もう日が陰っていたんですねぇ……」
ゆるりと立ちあがると、テラスから部屋の中へと歩いていく。その足元も覚束ない。
直ぐ傍に控えていた侍従に暖炉へ火を入れるよう言いつけ、ルヴァが腰を落ちつけた揺り椅子の傍のソファへと腰を下ろした。
この位置からは、ルヴァの表情は見えない。
視線を返して扉の方を見やる。さら、と頬にかかった黒髪が煩くて、乱雑に掻き揚げる。思えば、あの時切ったこの髪も、随分伸びてしまった。黄金の長い髪を揺らして元気に駆けていたあの少女の想い出をようやく振り切り、ずっと伸ばしていた髪を思いきって切ったのは、今回の女王試験が始まる少し前のこと。
彼の『髪でも切って、気分転換をしたらどうですか』という何気ない一言にどうしてこれほど自分が揺り動かされるのか、判らなかった。
長くなった、髪。その長さだけ、確かに時は流れていて。
侍従が火種を暖炉に置かれた薪へと移し、風を送ると赤々と炎が上がる。周囲を照らす紅に思わず目を細める。熱がゆっくりと部屋を暖めていく。
地の守護聖の舘に脚を運ぶようになってからもう幾日か経つ。沈むルヴァの理由は守護聖の間では周知の事実で。入れ代わり立ち代り少しでもルヴァを元気付けようと皆が地の守護聖の私邸を訪ねていた。ただクラヴィスだけは少し特殊で、他の者は2日置きだとか3日置きだとかで訪ねてくるのに、毎日のように訪ねてきていた。
クラヴィス自身、どうしてそれほど気に掛かるのか、判ってはいなかった。いつの頃からか、元気のなさそうなルヴァの姿を見ると、ひどく気になるようになっていた。
その心のざわめきに、微かな痛みが混じり始めたのは、栗色の髪の少女が女王の資格を得たあの日から。はっきりと覚えている。女王試験終了の知らせと前後して大きく揺れた地のサクリアと、翌日の謁見の時に見せた痛々しいほど柔らかな笑み。
刺さったまま抜けない小さな棘のように、今もクラヴィスの胸へ痛みを落とす何か。その正体は今だ判らず。
随分と考え込んでしまっていたのだろう。夕餉は如何いたしましょうか、と部屋に入ってきた侍従が頭を下げた。舘の主はというと。
「……要りません」
「ですが…」
いつもと同じ返答に、侍従の困ったような声が上がる。ふう、とひとつ溜息をつきながら、クラヴィスが侍従へと視線を流す。
「…私は少し空いた…一緒では都合悪いか」
「いえ、とんでも御座いません!それでは、御二人の分御用意致します」
嬉しそうな声に、地のサクリアが不機嫌を僅かに湛えてゆらりと揺らめいた。それをあっさり無視して、ここへ持ってくるよう言いつけるとクラヴィスは侍従を下がらせた。
幾許かの沈黙の後。
「……どうして、貴方はいつもそうなんですか」
「なんの事だ」
これほど沈んだままの彼も珍しいが、これほど不機嫌を露にする彼も更に珍しい。
「以前私に『少しは食事を摂らないと身体が参ってしまう』と言ったのは、誰だったか」
「…そんな、昔の話を持ち出さないでください……」
音も立てずに立ち上がり、溜息をつくルヴァの隣に近付く。背凭れの上に手を置くと、ゆらりと椅子が揺れた。
見上げてくる青鈍の瞳に、また、いつもの痛みが胸を襲う。
「もう、随分私のところに来てくれていますね……」
「…迷惑、だったか……?」
「いえ、別に」
くすりと微笑う。やはり痛々しさが何処か漂う笑み。
「御前が…泣いている、ような気がした……ただ、それだけだ」
「私、が?」
さも可笑しそうにくすくすと笑う。まさか、どうして私が泣かなくてはならないんですか?と、背凭れに倒れこむように背中を預けながら、ルヴァが呟いた。
確かに、ルヴァは泣いてはいなかった。涙を見せてはいなかった。今回の女王試験が始まってから、試験が終わり、現在に至るまで。一度たりとも。
それでも、泣いていた。自身で感じる地のサクリアが。何処に居ても、何をしていても。啜り泣くように、それはそれは静かに。注意してその存在を受け止めようとしなければ、気が付くことがないほどに、微かな。けれど、確かな気配。
ずっと、見ていたから。ずっと、気になっていたから。
そして、一度気付いてしまうと、もう、気になって仕方がなかった。
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