そのまま立ち去るには、と、暇を告げるようにルヴァに視線を落とし、軽く会釈をしようと彼の貌を見る。
「ル…」
動きが止まる。いや、止められた、という表現が正しいか。目にした光景が一瞬信じられずリュミエールは目を見張った。
室内に篭りがちなことを連想させる白い頬に、ひとしずく。煌きは頬の曲線を撫でて頤の縁へと辿りつく。ぱた、と服へと落ちた雫の音が聞こえるようで、はっと我に返る。
表情は先程とまったく変わらなかった。穏やかな寝顔と静やかな吐息。涙さえなければ、ありふれた安らかな眠りの光景。頬に刻まれた涙の痕を、もうひとしずく煌きが伝い降りていく。柔らかな寝顔のその奥、眠りの縁で見る夢は、そんなにも辛いものなのだろうか。
確かに頼りないところはあったけれど、その深い思慮と思いやりでそつなく執務をこなし、他の守護聖はもとより、周りの侍従達にまで慕われる彼。歳の割には酷く穏やかな笑み。その向こう側に隠された、夢にまで見る辛い想い。見てはいけないものを見てしまったようで、慌てるようにリュミエールはその場を後にした。
どれくらい歩いただろうか。気が付くとすっかり息があがってしまっていた。随分と歩いてきたようで、植生がすっかり変わり、背よりも低い潅木が散在する広場に立っていた。湖と言うには若干狭いけれど、先刻見たそれより広い水辺を見つけてそのほとりにひとり歩み寄る。
訪れた者に木陰を提供するかのように一本だけ、すっくと伸び枝を広げる立派な樹が立っていた。その根元に腰を下ろすと、涼やかな風が通り過ぎていく。ふと、先刻見てしまった地の守護聖の涙が脳裏を過ぎる。ふる、と頭を振ると、膝に竪琴を抱えなおして、弦に指先を伸ばした。
徒然に爪弾く音は、はっきりと心の機微を映し出してしまう。乱れる心そのままに、切なげな響きを持って大気へと融けていく。
いったい何の為に、涙を流しているのだろう。
どうして、あんなに穏やかな貌ができるのだろう。
ひとりで全てを受け止めて、なお痛む心を抱えて、どうして彼の人はあんなにも透明で居られるのか。幾許かでも癒せる方法はないものか。思いのままに、時に緩やかに時に激しく弦が震えて、広がる音に心が融けていく。
本当の心の色は、他の誰にも判らないけれど。
それでも、願わずには居られなかった。
どうか、心安らかに、と。
背後からかさりと響いた音に不意をつかれ、びくりと身体を戦慄かせて振り返る。潅木を分けて困ったように微笑む人影を見つけ、リュミエールは言葉を失った。
「あ〜……あの、すみません…驚かせてしまいましたか?」
薄く微笑んだまま、さくさくと草を踏締めてルヴァが歩み寄る。隣に立つとゆるりと首を傾げてもう一度微笑った。
「隣……座ってもいいですか?」
声が出せないままなんとか頷いて、腰を下ろす彼を見る。先刻見た涙の痕はまったく判らなくなっていた。いつもの穏やかな笑みだけが其処に在った。
と、座った直後視線が絡んだ瞬間に、悲しげな光が青鈍に疾走る。
はっとして僅かに目を開くリュミエールの目の前で、ルヴァが儚げに微笑った。
「…どうして………」
「あ……その、ハープの音を耳にしたので、つい……」
探してしまいました、と照れたように首を竦める彼を呆然と見詰めながら、それでもなんとか微笑み返してみる。
「今日の曲は、なんだか少し悲しげですね」
いつもの曲は、もう少し穏やかで優しげな曲でしたけれど、と目の前で柔らかな微笑を口の端に乗せる。
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