花から視線を外して、直ぐ近く、口を開ける森の入り口を見やる。
いつも彼は、そこからやってきた。
……今でも、いまにも、そこから姿を現しそうなほどに、想い出は鮮明。
泣き腫らして紅くなった瞳で過日見つけた、新しい芽。その瞬間、ある出来事を思い出した。
『綺麗だろ?』
『ええ、とっても綺麗ですねぇ…』
見蕩れるルヴァに、彼が首を僅かに傾げてみせる。
『この花の花言葉、知ってるか?』
『………いぃえ…知りません、けど…』
問いの答えへの疑問符を載せきれないほどに載せた声を、あっさり無視される。
『ま、いいか。……そういえば、この間御前が探していた本な、見つかったぞ』
庭先で咲いた花の花言葉を知ることよりも遥かに興味のあった話題を振られて、現金にもそんなやりとりをしたことさえ忘れていた。彼と過ごした時間は全て覚えていると思っていた自分が少し恥ずかしくなって、ルヴァはひとり貌を紅くした。
そこまで思い出して、はたりと動きが止まる。
彼が花言葉を話題に出したのは、後にも先にも、これ一回きり。その事実を記憶の片隅から引っ張り出したルヴァは細い目を大きくした。
ふわりと通り抜けた風が、垂らしたターバンの布を揺らして通り過ぎていく。
「わたしが……もし気付かなかったら、どうするつもりだったんですかねぇ」
『でも、気付いてくれるだろ?御前なら…』
くすりと微笑うルヴァの視線の先、森の入り口でカティスがそう言いながら笑って返しそうで。不意に潤む目尻を指先で拭う。
彼が聖地を去ってから、聖地の時間で数週間が過ぎている。下界では一体どれほどの年月が経っているのか判らない。けれど。
「貴方がそう言ってくれるのなら……」
言葉を切って、空を仰ぐ。聖地の抜けるような青空に、よく似合っていた彼の髪。不意に頬を伝い降りた涙を袖先でそっと拭い、胸の前で両手をぎゅっと握り締めた。
「貴方の望みは、そのまま、わたしの望みでもあるんですよ……知っていましたか?」
泣き笑いの表情が、酷く透明で儚げ。またひとつ、涙の粒が零れた。
ふるる、と白い花が揺れる。ルヴァの心を映すように。
「いつになるかはわかりませんけれど……きっと、叶えます」
深く想いを秘めた青鈍の瞳が、蒼穹を映し出す。
「きっと……」
彼が此処から居なくなってから、初めて咲いた白い花。ルヴァの足元で揺れるその花が、どこか嬉しげに見える。
彼がその花に託した伝言。いつ伝わるか判らないほどに、ささやかで密やかな。
聖地をいつか去らなければならない彼が、ただひとつ望んだこと。
『あなたのことを、待っている』
了
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