七夕の戀




 手を握り締め、ぶんっと頭を振ってからもう一度青藍へと視線を向ける。
 しっかりと向けた視線の先、青藍はにっこりと微笑んだまま其処に佇んでいた。先刻感じた幻覚のような揺らぎもなにも消え失せ、目の前に居るのはただ少しだけ皮肉家の年若い楽士がひとり。それでも、興味を覚えた胸の鼓動を確りと感じながら、地慧はようやくにこりと微笑み返した。
「あ〜……そうですね、できれば楽しい曲をひとつお願いしたいですねぇ」
「ええ、喜んで」
 連れだって歩いていく先は地慧の宮。片手で時折弦を爪弾きながら、月明かりの下先を急いだ。



 ふと、涼やかな音が途切れる。何気なく向けた視線が彼のそれとひたりとかち合った。思わず息を止める地慧へ、ふわりとした笑みが向けられる。
「地慧様。貴方のこと、ちょっと気に入ったかも」
「は」
 突然の台詞にどう反応していいのか判断しかねて、地慧は脚を止める。それに気付いて同じように脚を止めた青藍が、視線を泳がせながらぽろんと竪琴を爪弾いた。
「さっき初めてお会いしたばかりですけれど……僕、貴方のこと結構好きになりました」
 この青藍という青年、言動が突然で幾度も地慧を驚かせる。言葉の真意を取りかねた地慧は苦笑しながら彼を振り返った。そうしてまた視線がかち合って、どきりと鼓動が跳ね上がる。
「そう……です、か?……ありがとう…ござい、ます」
「…そんなありきたりな台詞じゃ、つまらないですよ」
 ついっと近付く青。びくりと肩を揺らして地慧は思わず一歩後ろに下がる。途端薄い口元に浮かぶ笑み。その鮮やかさに目を奪われて脚を止めてしまったその腕をぐいっと掴むと、青藍は先に立っていた自分の方へと細身を引き寄せた。
「夜って想ったよりあっさり終わってしまうものですからね。……さ、はやく行きましょう?」
「あ……あの、青藍…っ…」
 袂を翻し粋な仕草で取った手の甲へひとつ口付けを贈ると、見かけによらぬ強引さで歩を先へと進めていく。
「貴方の気持ちが晴れるまで、幾らでもお付き合いしましょう?」
「青藍……」
 頬に青の髪を纏わせて振り返りにっと微笑んでみせた彼の姿に、再び誰かの影がぶれて重なる。一瞬焦点を失った彼に青藍は苦笑すると、闇の向こう姿を現し始めた地慧の宮へとまっすぐに歩いていった。



 手を引く彼の腕の思い掛けぬ力強さと、はたはたと翻る純白の絹の袂。迷う心と惹かれる心が同居する身体を持て余しながら、青藍の整った横顔を見詰めた。
 ようやく辿りついた扉の前で、少しだけ瞳を大きくした青藍が、皮肉を僅かに塗した苦笑を伴って地慧を見詰め返す。
「今日初めて会ったような男の言葉は、やっぱり信じられませんか」
「いえ、そんな……そんなこと、ありませんよ?!」
 ゆっくりと開いていく扉の前で、恭しく腰を屈めてもう一度地慧の手の甲へ口付けを贈る青藍。ふわりと柔らかな夜風が地慧の頬を撫でていく。
 樂を心から愉しみ慈しむようにして奏でる者に本当の悪人は居ない。そんなことを言ったのは、いったい誰だったか。



 目の前の楽士に惹かれるのは、彼に似ているからだろうか。似ていれば誰でもいいのだろうか。自分はそんな不実な存在ではないと想っていたのは、誤りだったのだろうか。それとも……。
「地慧様?」
 それでも。
「あ〜……その…済みませんね、さ、中へどうぞ?」
 彼を見てみたい。興味が地慧の背中をそっと後押しした。長椅子を勧め取り敢えず茶の用意でも、と、隣室へ脚を向ける。
 薄く開かれた扉の向こうへ消えようとする地慧の背中に、溜息のような小さい声が被る。
「……貴方が僕に誰かを重ねていたとしても、そんなことはどうでもいいんです……ただ、貴方が『僕に興味を持ってくれた』だけで、今は……」
 纏っていた自信が形を潜め、憂いが一瞬だけ部屋を満たした。ふわりと持ち上げられた細い指先がぽろんと一粒の音を零す。なにかを考え込むようにして弾かれる音が曲の形を成し始めた頃、盆を持った地慧がようやく隣室から姿を現した。
「地慧様、どんな曲がお好きですか?」
「え〜…そうですねぇ……」
 ゆうるりと微笑んだ地慧が、机の上に盆を置く。



 程なくして、窓辺に揺れる影から明るくも少し切なげな樂が、静かに闇へと滑り出していった。







〜 青藍−セイランEND 〜



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