七夕の戀




 いつものように、いつもの川のほとりへと歩いていく。
 自分の宮を出たところではゆっくりと歩いていたはずが、川の水面の煌きが見えてくると自然に足早になり、最後はいつも小走りに駆けていってしまう。そんな地慧を微笑みながら出迎えてくれるひとつの影。少し乱れた息を整えながら、にっこりと微笑み返して立ち止まる。
『こんにちは。今日は早いんですね』
 毎日のように待ち合わせる川のほとり。大抵は地慧のほうが早く到着して、歩いてくる彼を笑顔と共に迎える。その日は珍しく彼の到着のほうが早かった。
『大事な話があって』
 いつもと同じ川の煌き。いつもと同じ小鳥の囀り。いつものようにふたり向かい合って立っているのに、彼の表情だけがどこか余所余所しい。
『…大事な、話……』
 不安な気持ちが声に現れる。その目の前で、頷きと共に浮かぶ寂しそうな笑み。
『もう…逢えない』
『……え…?』
 すぐ目の前に居る筈の彼の姿が、なんとなく遠くなったような気がした。
『…もう、逢いにこれない』
 気付くと、手を伸ばしても届かない位置に彼の身体が移動している。駆け寄ろうとするけれど、地慧の脚は石膏で固められてしまったかのようにぴくりとも動かない。焦る地慧から、どんどんと彼が遠ざかっていく。
『どうして……どうして、なんですか?』
『…御免……』
 手の届かない彼方から、彼の声だけが響く。
 気がつけば、周囲は闇より深い絶望で覆われていた。



 精一杯に手を伸ばす。けれど、彼に手が届かない。
 ………彼の、姿すら、見えない。














「行かないで……行かないで、ください…っっ…!!」





 叫ぶと同時にがばりと跳ね起き、途端に酷い眩暈に襲われる。かくりと倒れこみ寝台から落ちそうになった地慧へ、逞しい腕が差し出された。
 目の前に迫った床が遠くなり、天井が見える。続いて現れた黄金色の瞳に、地慧は言葉を無くした。
「目を覚ましたばかりなのですから、そんなに急に動いてはいけませんよ」
 ずり落ちてしまった肌掛けを肩まで引き上げ、やんわりと微笑む。優しげな笑顔を見上げながら地慧は小さく息をついた。
 この金色の瞳には見覚えがあった。何処で見たのか……つい最近、見たような気がする。横になったまま、部屋の中をぐるりと見回す。酷く殺風景な室内に、幾つかの寝台と机と椅子。地慧があまりに不思議そうな貌をしてしまっていた所為か、傍らに座っていた黄金色の瞳の彼が、苦笑しながら頭を掻いた。
「済みません……地慧殿をこのようなところに案内するのは失礼かと思ったのですが…」
 目の前のささやかな笑みに地慧の記憶が蘇る。この、目の前に座る金色の瞳をした大柄な彼は、東の宮の衛士を統べる近衛府の長、毘久斗。蟄居を言いつけられる前までは、散策の最中に時々出会ったことがあった。巡察中だと言って照れたように微笑う彼の笑顔が記憶に残っている。



 それにしても、ここは何処なのだろう。毘久斗が居るということは、近衛府の詰所だろうか。考えていたことが思わず口をつく。
「ここは……」
「……衛府の詰所裏の仮眠所です」
 笑みをそのままに、毘久斗が静かに応えた。彼の貌に視線を走らせるとほぼ同時に、その笑みが姿を潜める。広い膝の上に置かれた大きい拳がぎゅっと握られる。
「溺れて、波に呑まれるようにして流されていらしたのです」
 誰が、という問いは愚問。脚を滑らせ川に落ちた地慧は、溺れ意識を失い流されていたところを、幸運にも毘久斗に発見されて助け上げられていたのだった。
 意識の何処かで確かに覚えている、息苦しさと水の冷たさと、同時に押し寄せてきた不思議な安堵。毘久斗が座っている場所と反対の方へと貌を向けて、唇を噛み締めぎゅっと拳を握った。
「あのまま流されてしまったほうが良かったのに…」
 悲しい想いを抱いたまま、水の底へ流れ着き物言わぬ貝になって、悲しみを身体に閉じ込めたまま彼のことだけを考えて居られたら。
 地慧の言葉を打ち消すように、毘久斗が低くけれど強い言葉で返す。
「………そんなことをおっしゃられてはいけません…」
 寂寥に囚われた青鈍の瞳が止まる。幾筋か額に落ちた赤銅の髪を揺らして言葉が続けられる。
「今日のことは……済みません、下の者から少し聞かせて頂きました…けれど、先のようなこと、口になさってはいけません……」
 天界の民が悲しみの為に止めど無く涙を流し続ければ、やがてその身は融け、霧のように消えてしまう。涙を流さずとも、拭いきれない悲しみを身体の中に抱えたまま永い時を生きれば、心は現在に囚われ次の生を選ぶことが出来なくなり、輪廻の輪から外れた存在として永遠に空をさ迷い続けなければならなくなる。



 約束の今日、彼が姿を現さなかったのは、どうしようもないなにかがあってのことかもしれない。悲しみに暮れ己を無くすより、来年に想いを託したほうがいい。悲しみに暮れるのは、それからでも遅くは無い。……そして、悲しみは本来癒すべきもの。癒されるべきもの。浸るだけでは、なにも始まらない。
「大事に想うもの、ただひとつそれさえあれば他になにも要らない……それが無いのなら、他になにが己が傍にあろうと何の意味も無い。……その想いはよく判るつもりです」
 そうぽつりと呟いた毘久斗の横顔に、深い翳りが一時瞬いた。
「貴方にはなんの意味もない存在かもしれないですが……貴方を護りたい、貴方を支えたい、そう想っている者はたくさん居ます。彼らの為にも……いえ、貴方との約束を違えてしまったことを深く悔やんでいるかもしれない『彼』の為にも……」
 そんなに辛そうな貌をしないで、深い悲しみに囚われないで欲しい。実感の篭った毘久斗の言葉に、地慧の瞳から涙が一筋零れ落ちた。
 はっとしたように貌を跳ね上げた毘久斗が、慌てて頭を下げる。
「済みません、出過ぎたことを……」
 静かに蒼の髪が横に振られる。左手で涙を拭い、地慧はふわりと微笑った。
「いいえ……ありがとうございます」
 上掛けをきゅうっと握り締め、小首を傾げるようにして遠くを見詰める地慧を、毘久斗は深い黄金色の瞳で見下ろした。
「まだ…諦めてはいけませんね……彼を信じようと想います」
 もう、泣いたりはしません、と微笑んだ青鈍に、黄金色の瞳が安堵の溜息を零した。



 何処か寂しげな笑顔を浮かべた毘久斗が、椅子から立ちあがる。
「お口に合わないかもしれませんが……なにか暖かいものをお持ちしましょう」
「あ……済みません…」
 慌てて起き上がろうとする地慧を押し留めて、再び横たわらせる。おどけた様子で片目を瞑ってみせた。
「ゆっくりなさっていてください」
 直ぐに戻って参りますから、と、扉の向こうへ姿を消した毘久斗を見送り、枕元から見える窓の外の星空へと視線を向ける。





 零れるような星空。あの日と少しも変わらない星空。
 小さく彼の名を呟く地慧の視線の先で、ひとつ星が流れた。





 そこはかとない予感の通りに恋が破れ、悲しげな微笑を見せる地慧の隣で、そっと支えるように寄り添う毘久斗の姿が見られるようになるのは、まだ数年先のこと。
 その日の夜、巡察を終えた毘久斗の自室から時折漏れ聞こえる小さな微笑い声は、夜明け近くまで途切れることはなかった。







〜 毘久斗−ヴィクトールEND 〜



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