「―――副都心」
「…はい」
名前を呼ばれた副都心が、ことりと首を傾ける。
「お前だろう、これ」
「僕はこんなめんどくさいことしませんよ」
不思議そうに応える副都心の顔を、至近距離から有楽町がじっと見つめた。
「…お前以外に誰がやるんだ、こんなこと。―――ほんとに手の込んだ面倒なこと好きだよな…」
「え、なんですか? 僕は何も」
断定的な口調に副都心が抗議の声を上げた。その語尾に有楽町が台詞を重ねる。
「危うく引っかかるとこだった」
「引っかかる、って…だから、いったいなんなんですか」
話を聞いてくれない有楽町に副都心が軽くむくれた。うん、と有楽町は頷き、箱を指さす。
「それぞれの箱にひとつずつ、金色の小さな印が…文字のとこについてる。これ、アナグラムのつもりなんだろ?」
箱へと向けられる視線を追って、副都心は有楽町の指先が示す場所へと視線を落とす。
「箱の中身はバレンタインのチョコレート、金色の印がついてる文字はアナグラム、ってことに気付いたら…後は簡単だ」
並べられた順に、印がついている箇所の記号―――アルファベットを、有楽町が指で辿っていく。
「H、a、p、p、y、V、T、t、o、Y。―――ハッピーバレンタイン、トゥー、Y」
「わあ、本当だ、凄いですね。推理小説みたいです」
棒読み口調で未だしらを切る副都心に、有楽町は少し困ったように笑った。
「金色の印、メッセージの結びが『Yへ』、それに、届けものなのになんのメモもついてない、ってのが、…なぁ?」
有楽町は、すぐ後ろに居る副都心の肩口に軽く頭を凭れさせた。そのままの恰好で副都心の顔を見上げる。
「こんな手の込んだいたずらするの、お前しかいないよ。…そうだろ?」
にっこりと鮮やかな笑みを浮かべた有楽町に、副都心は目を見張った。言われている内容はさっきと変わっていない。けれど、肩にかかる重みは心地よく、至近距離の笑顔に心臓を鷲掴みにされて。副都心は有楽町の腰へ両手を思わず伸ばしていた。
「けどな、こういうのは…悪趣味過ぎるぞ?」
伸ばした手が触れる直前、不意に有楽町の表情が変わった。笑顔は笑顔なのだけれど、唇の端が僅かに引きつっている。目が怖い。どこか怒っている。
なんだかちょっとまずそうだ、と副都心が身体を引こうとすると、有楽町の手が副都心の頭へと伸びた。両手で両耳を摘まれ、ぐいと反対方向に引っ張られる。
「先輩、ちょっと、何するん―――いた、いたたた」
摘まれている耳と引っ張られている耳の付け根が同時に悲鳴を上げる。痛い痛いと騒ぐ副都心からぱっと手を離し、有楽町は数歩離れてくるりと振り返った。赤くなった耳を両手で押さえる副都心と視線が合う。
「何がしたかったのは聞かないでおいてやるから、…これに懲りてもうこんな悪趣味なこと仕掛けるなよ?」
じろりと睨む有楽町の顔は見るからに怒っていた。しゅんと肩を落とした副都心が、腰を大きく折って頭を下げる。
「…ごめんなさい。もう、しません」
有楽町は思わず目を瞬かせた。思いがけず素直で殊勝な副都心に戸惑う。けれど、こんな態度を示して見せた後輩を、先輩としては許してやらない訳にはいかない。
驚きと、少しの不安を感じながら、自分の視線よりも低いところにある金髪へ手を伸ばした。
「―――うん、…分かってくれたなら、それでいいんだ」
くしゃりと髪をかき混ぜるようにして副都心の頭を撫でる。その頭が少し傾き、窺うように有楽町を見上げた。
「…ほんとですか?」
「ん、―――まぁ、もうしないならいいよ。…本当に、頼むぞ?」
緩く笑みを浮かべ頷いて見せると、副都心はほっとしたような顔をして身体を起こした。
「はーい」
そして見えた副都心の笑顔は、いつもと余り変わらないように見えた。少し不安を覚えはするけれど、せっかく2人で休憩しに来たのだ。険悪な雰囲気で終わるのは面白くない。取りあえずは分かってくれたようだからいいかな、と、有楽町はそれ以上突っ込まないことにした。
「よし、それじゃあお茶いれてくるか。…副都心はコーヒーだったよな」
待ってろ、と言い置くと有楽町は給湯室へ姿を消した。その背中に『ブラックですよー?』と声を掛け、副都心は手近な椅子にとんと腰を下ろす。
奥から聞こえてくる物音に耳を澄ませながら、膝の上に両手を乗せてきちんと座る副都心は、ゆるりと首を傾けた。
「結構気合い入れて考えたのに…やっぱり先輩には分かっちゃうんだよなぁ」
頭を真横に倒した恰好で副都心は『うーん』と唸る。
「―――ああ、それだけ僕のこと考えてくれてる、ってことか。なるほど」
がばっと身体を起こし、理解したと言うように副都心はぽんと手を打った。『愛されてるなぁ、僕♪』と頬に片手をあて、うふふと笑うその顔が胡散臭い。
「また、…気付いて貰えたら、嬉しいな。―――あれ、でもそれだとまた怒られるのか。…難しい」
呟いて腕を組む。視線を左上へ流し、それから右上へと滑らせて、そのまま数秒。
「そうする、と…これはもしかして、僕フリークな先輩でも気が付かないくらいに巧妙な仕掛けを頼む、ってことでいいのかな」
そうに違いない、と大きく頷く。
「先輩、次は気付かれるようなことしませんから、―――楽しみにしててくださいね」
立てた人差し指を口許へあて、唇を三日月のようなカタチにして、副都心は笑った。
「お茶、入ったぞー」
給湯室から聞こえてきた声に副都心は視線を向けた。
「わあ、ありがとうございます!」
両手を膝の上に揃えて置き、副都心は畏まった様子で有楽町が戻ってくるのを待った。
「それ、お前がくれたチョコレートさ。お茶請けにひとつ開けようか」
「ひとつと言わず、ふたつみっつと開けて食べちゃってください♪ たくさんありますから!」
「そんな一度にたくさん食べられないよ。お前も手伝えって」
苦笑とともにそう応えた有楽町は、2人分のカップをテーブルへ置いた。さっき並べたときのままで置いていた箱をひとつ手許へ置いて、残りを全部紙袋に入れ直す。
「先輩が全部食べてくださいよ」
「全部食べたら太るだろ」
うーん、と何事か考え出した副都心を余所に、有楽町は箱を手に取った。包装紙の端を留めているセロハンテープを几帳面な手つきで剥がし始める。
「………先輩は、もう少し肉をつけて戴いた方が、…こう、抱き心地が―――」
「そういうセクハラ発言はいい加減やめないか? オレだってそろそろ本当に怒るよ?!」
「わあ、先輩、照れちゃって可愛い〜」
のれんに腕押し、ぬかにくぎ。そんなことわざを思い浮かべた有楽町はまた大きなため息をついた。副都心はうきうきとした様子で、有楽町が持ってきてくれた自分用のカップを手に取った。
口許へ近付けひとくち飲もうとして、副都心の動きが止まる。
色は茶色い。けれど、コーヒーの匂いがしないのだ。
「―――あの、先輩?」
「んー?」
開けた箱から有楽町はチョコレートをひとつ取り出した。それを口の中へと放り込みながら首を傾げる。
「これ、…コーヒーじゃないですよね」
「そうだな」
「………ホットチョコレートですよね」
「他の何かに見えるか?」
「や、あの…そうじゃなくて、これって」
両手でカップを抱えた副都心は座ったまま有楽町の顔を見上げる。肩越しに金髪の後輩を見遣った先輩が、にっと笑った。
「特別甘くしてやったからな。全部飲めよ」
「―――! せ、せんぱいっ!!」
驚きに目を見張った副都心が、がたりと大きな物音をさせて立ち上がった。カップの中でホットチョコレートがたぷんと揺れる。
思いがけない反応に有楽町は慌てた。とっさに副都心の肩を両手の平で押さえる。
「ちょっとお前、落ち着け! こぼれるだろ?!」
「大丈夫です先輩から戴いたものはたとえ一滴でも決してこぼしませんよ? 例え万が一こぼしたとしても全部きれいに戴きます! というかこれ、バレンタインチョコですよね? 先輩から僕に、ってことですよね?? ありがとうございます! 僕も先輩のこと大好きです!!」
肩を押さえる有楽町の手を押し返す勢いで、副都心はじりじりと距離を詰めていく。戸板を滑り落ちていく水の様に淀みなく流れ出る恥ずかしい台詞に、有楽町は軽く混乱しながらも負けじと声を上げた。
「ああもう、分かったから取りあえず座れ! 顔が近過ぎるって、バカ野郎!!」
切羽詰まったような有楽町の台詞が休憩室いっぱいに響いた。その声は、ホームまで聞こえたとか、聞こえなかったとか。
そして次の日。鼻歌を歌うくらいに上機嫌な副都心と酷く疲れた顔をしている有楽町が歩いているところへ、満面の笑みを浮かべた丸の内が全速力で走ってきてタックルしていた、というなんとも微笑ましい光景が目撃されたという。
<了>
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