2011.02.14 UP

香探る日々
〜2〜


◇   ◇   ◇



 その日長野は、高崎駅の休憩室でようやく上越を見つけることができた。急にどきどきしてきた胸を落ち着かせようと深呼吸をして、ソファの背もたれの側から正面へと回り込む。そして寝そべっている上越へ、綺麗にラッピングされた箱を思い切って差し出した。
『あの、じ、上越先輩、これ、受け取ってください!』
『長野…? なに、これ』
 差し出された箱に目を向けた上越は、身体を起こしてそれを受け取った。ためつすがめつ眺め首を傾げる様子に、長野は両手をぎゅっと握り締めて答える。
『バレンタインデーのチョコレートです! バレンタインデーというのは、大好きな人にチョコレートを贈る日だと聞きました。なので、ぜひ、上越先輩にと思いまして』
 女性から男性へと贈るものだと聞いてはいたけれど、大好きな相手に贈るというのなら問題ないだろう。大好きな甘いものを、大好きな上越先輩に、と。ただそれだけの気持ちだった。
『…長野』
 にこりと笑い名を呼ぶ上越に、長野は言葉を止めた。
『バレンタインデーにチョコレートを贈るっていうのは、日本だけの風習だって知ってる?』
『え…日本だけ、なのですか?』
『うん、そう。それに、その“チョコレートを贈る”っていうのを言い始めたのは、チョコレート業者なんだって』
 思わぬ言葉に長野が絶句する。それは、つまり。
『チョコの売り上げを伸ばしたい業者が企画した、ただのキャンペーン、ってこと。…宗教感が曖昧な日本ならではだよねぇ。本当に』
 そう言うと上越は長野から視線を外した。相変わらず笑みを浮かべたまま、さっき受け取ったチョコレートの箱を軽く掲げるようにして眺める。
『そ…んな、つもりでは…』
 じわりと熱くなる目許を伏せて、長野は両手をぎゅっと握り締めた。
 なんの意味もない行為なのだと言われているような気がした。自分が考えなく馬鹿なことをしてしまったような気がした。なんだかとても悲しくなって、でもここで泣いてしまったら逆に上越を困らせてしまうような気がして、長野は必死に涙を堪えていた。
『長野』
 視線だけを長野に向けた上越が、もう一度名を呼んだ。はっとした長野は慌てて目許を擦り、はい、と返事をして顔をあげた。
『長野は、…僕が、好きなの』
『―――っ、はい、…あの、ご迷惑かもしれませんが、僕は、上越先輩のことが、大好きです。…尊敬、しています…っ!』
『…そう』
 うっすらと笑みを浮かべたまま、上越はそう言って浅く頷いた。少しの間を置いて、上越が再び口を開く。
『僕も、君のことは嫌いじゃあないよ』
『っ!』
 思っていなかった言葉に、長野は目を見開いて上越を見つめた。
『それじゃあ少し早いけど、3時のお茶にでもしようか。…長野も一緒に食べるでしょう?』
 そう言って立ち上がる上越を見上げ、長野は目尻に少し涙が残る顔に満面の笑みを浮かべた。
『は…はいっ!』
 長野が大きく頷いて答えると、上越は奥の給湯室へと足を向けた。
『お茶いれてあげるから、コップを出しておいて』
『はい!』
 ほんの少しだけでも、喜んで貰えたならそれでいい。そう思いながら長野は、コップをしまっている戸棚へと駆け寄った。


◇   ◇   ◇



 どこかから、耳障りな音が聞こえてくる。眉をしかめて身体を起こし音源へ手を伸ばすと、冷たくて堅い感触が手に触れた。目覚まし時計だ。
「―――夢、か」
 乱れた癖っ毛に指を差し入れて掻き揚げ、視界を確保する。手に取った時計を見やり時間を確認して、北陸はベッドから降りて立ち上がった。
「またずいぶんと懐かしい夢…」
 出勤の準備をしながら、今見た夢を思い返す。
 初めて上越にチョコレートを贈った時の思い出は、少し苦くて、けれど少し甘い。
 企業の思惑に知らぬまま踊らされた。そんなことは露ほども知らぬ子供に大人の事情を真っ向から突きつける上越の大人気のなさは、指摘あるいは糾弾されるべきかもしれない。けれど、上越を最上に考える北陸にそんな思いは毛頭ない。あの時のことを思い出す度、ただただ、己の無知さ加減を歯がゆく思う。
 けれどその一方であの時だけは、上越の表情も声もどこか優しかった。あんな言葉をくれたのは、後にも先にもあの時だけなのだ。
 その翌年。上越の見せたあの表情を想い今年もチョコレートを贈りたいと長野は思ったけれど、無意味だと言われたように感じたことがどうしても気になっていた。贈ってもいいものかどうかと悩んでいる長野に、秋田がにっこりと笑って言ってくれた言葉がある。
『僕は嫌いじゃないよ、こういうイベント。だって、おいしいものを食べたら誰だって幸せになるでしょう? それっていいことじゃない。僕なら大歓迎だよ』
 この言葉に励まされ力を貰ったおかげで、長野だった頃から北陸となった今までずっと、上越にチョコレートを贈り続けてこられたのだ。
 それが例え自己満足に終わっているのだとしても構わない。上越が受け取ってくれる限り続けようと、北陸は思う。
「笑っていて欲しいだけ、なんだ」
 自嘲めいてこぼした言葉をコーヒーに落として飲み込み、北陸は仕事に出掛けた。
 日付は2月14日。バレンタインデー当日である。



つづく

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