年が改まってこの方、雪の多い日が続いていた。在来は稀に止まったりしているようだったけれど、その日は特に大きな混乱はなく、運行は順調だった。
昼食をとろうと向かったエキナカでは、今日で最後とばかりに呼び込みをする店員の声が響いていた。バレンタインデーに合わせたイベントショップに立ち寄る女性客は日に日に増えていき、甘いものが好きなのだろう男性客の姿もちらほらと見えた。
人出が以外と多くイートインはどこも満員だったため、北陸は弁当を買って帰ることにした。
休憩室でひとり弁当を食べ終え、食後のお茶をいれようと席を立ったところで、ノックの音が聞こえた。戸口へと向かい扉を開けると、駅員がひとり立っていた。
「何かありましたか?」
「いえ、上越上官と北陸上官にお届け物がありまして」
「上越先輩と、僕に?」
見ると確かに紙袋を手に提げていた。心当たりはないこともない。差し出された紙袋を受け取り、扉を閉めてひとまずテーブルのところへと戻った。
北陸宛てだと言われた方の紙袋を開くと、中には可愛らしいラッピングが施された小さな箱が幾つか入っていた。外側に張られているシールからやはり、バレンタインのチョコだと分かる。
「毎年毎年…本当にマメだなぁ」
ため息ながら北陸は苦笑した。数はそんなに多くないけれど、毎年バレンタインデーには上越と北陸それぞれにチョコレートが届くのだ。
カードが付いているもの、付いていないもの。小さな箱、大きな包み。例年通りなら今日の夜辺りにもう一度、似たようなものが入った紙袋を提げた駅員がまた来るのだろう。
「ありがたい、とは思うんだけれど」
自分宛てだと渡された紙袋へ元通りに箱を入れ直すと、北陸はそれをそっくりそのままゴミ箱へ捨てた。
「僕が欲しいのは、上越先輩からだけなんだよね」
甘いものは好きだけれど、知らない相手から貰っても正直何の感動もない。もったいないと言われても食べる気がしないのだ。こればかりは、どうしようもない。
「秋田先輩のは、…あの人には、恩があるから」
秋田があの時言ってくれた言葉のおかげで、折れそうになっていた長野の気持ちは救われた。だから、秋田からのチョコレートだけは、ちゃんと受け取って食べることにしている。
そして北陸は、もうひとつの紙袋へと目を向けた。上越宛ての届け物。中身は見ずとも分かる。北陸のところへ届けられたものと同じ、バレンタインのチョコレートだ。
手を伸ばし、持ち手を指先で引っかけて持ち上げる。
「僕を差し置いて先輩に贈ろうだなんて、おこがましいにも程があるよね」
北陸はにこりと笑みを浮かべると、自分宛の紙袋を捨てたゴミ箱へ、さっきと同じように放り込んだ。埃を払うように軽く手を叩き、さっぱりした表情で改めて給湯室へ向かう。
棚から湯呑みを取り出していると、扉の開く音が聞こえた。気が付いて北陸は手を止める。ノックの音はしなかった。と、いうことは。
「上越先輩?」
給湯室から顔を覗かせると思った通り戸口に上越が立っていた。昼間は食事をする時間がまちまちなため、休憩室でふたりが顔を合わせることはあまりない。それだけに、北陸は嬉しそうに表情を輝かせて駆け寄った。扉を閉め振り返った上越が、傍に立つ長身を一瞥する。
「君もいたんだ」
戸口から奥へと歩き出す上越の後ろを、まるで犬のように北陸がついていく。
「はい、僕は今ちょうどお昼を食べ終えたところです。先輩は?」
「僕はこれから」
そう返すと上越は、手にしていたビニール袋を持ったまま給湯室へ行こうとした。ああ、と声を上げた北陸に、その足が止まる。
「お茶なら僕がいれますから、先輩は座って食べていてください」
「…そう、じゃあ頼もうかな」
「はい!」
いそいそと給湯室へ向かう北陸を横目に、上越はテーブルの上へビニール袋を置いた。その中から弁当と小さな箱を取り出すと、今度は小さな箱を手に取り、その包装紙を破いて外し始める。
給湯室からは未だお茶の準備をする物音が聞こえてくる。ゴミ箱へと歩み寄った上越は、破り剥がした包装紙を捨てようとふたを押し開けた。そこに見えた華やかな色に手を止め、目を瞬かせる。
「北陸、僕が来る前に誰か来た?」
「いいえ? 誰も来てませんよ」
包装紙を捨ててテーブルへと戻りながら上越が問う。北陸の返事はすぐに聞こえてきた。あっさりとした口調に、上越は椅子に腰を下ろしながら浅くため息をこぼした。
指先を己のこめかみに当てて、視線を伏せる。
「本当に、まったく…」
「どうかしましたか?」
急須と湯呑みを手に給湯室から戻ってきた北陸が、ため息をついている上越に気が付いて首を傾げた。
「なんでもないよ。―――お茶」
「すみません、今いれます」
湯呑みへとお茶が注がれる。立ち上る湯気を追うように上越は視線を上げて、北陸の顔を見上げた。
「どうぞ」
「ありがとう」
にっこりと上越に笑いかけてくる顔に、不自然なところはない。それをじっとみて、上越はもう一度ため息をついた。
「どうしたんですか? 僕の顔に何かついてます?」
首を傾げて頬を擦る北陸から視線を外し、上越は弁当のふたを開けて割り箸を割る。
「なんでもない、って言ってる。…それより、座ったら? 隣で立ってられると落ち着かない」
「はい。―――あ、その前に、ちょっと」
相変わらず嬉しそうに応えた北陸は、言葉を切ると慌ただしく給湯室へと戻っていってしまう。訝しげにその背中を見やり、上越は湯呑みを手に取った。
お茶をひとくち飲む。ちょうどいい温度に上越は一息ついた。その隣へ、戻ってきた北陸が立つ。
「上越先輩、これ…受け取ってください!」
目の前に差し出された包みへ上越が目を向ける。
「…チョコレート?」
「はい。今日は、バレンタインデーなので」
ふうん、と上越は気のない声をこぼした。北陸は包みを差し出したままの恰好で、上越が受け取ってくれるのをじっと待っている。癖っ毛が頬に陰を落とすその顔には、期待と緊張をない交ぜにしたような表情が揺れていた。
今まで毎年受け取ってくれているから、今年も受け取ってくれるはず、と思う。その一方で、去年と今年が同じである保証はない、とも思う。
要らない、と言われても、食い下がり言いくるめどうにかして受け取って貰うつもりではいる。けれど、どうせなら上越の意志で受け取って欲しい。
「―――あれ」
少し興味の乗った声を上越がこぼした。はっとして視線を上げる。
「これ、日本酒を使ってるんだ」
「は、はい! 日本酒がお好きなら、こういったものの方がいいかなと思ったんです」
「へえ」
つと上越が手を伸ばした。長い指が包みの持ち手へとかかったのを見て、北陸がぱっと顔を輝かせる。
「たまには気が利くじゃない。…貰うよ、ありがとう」
「―――はいっ!」
見るからに嬉しそうな表情を浮かべた北陸は、上越の隣に置かれた椅子を引いて腰を下ろした。ほっとした顔で北陸が湯呑みへ手を伸ばす。その横顔を見やり上越は目を細めた。
「北陸」
「はい」
「口開けて」
「―――え?」
聞こえた上越の台詞に北陸はきょとんとした顔で隣を見た。その口許へ、何か丸いものが押し当てられる。反射的に開けた北陸の口の中へ、ころりとそれは転がり込んだ。
微かな苦み。ついで広がる甘み。どう考えてもトリュフチョコレートとしか思えない味と感触に北陸は驚いた。慌てて上越を見やる。
「せんぱい、…これ」
「口の中に物入れたまま喋らない」
ぴしりとそう言われて北陸は口を噤んだ。そして考える。買い置きの菓子にこんなものはない。さっき渡したチョコとも違う。
早く訊きたくて、けれど急いて食べるにはもったいなくて。じわじわと湧き上がってくる何とも言えない感情を持て余しながら、口一杯に広がるその甘さを北陸はじっと味わった。
「―――先輩、今のって」
黙々と弁当を食べる上越の横顔に向き直り、高揚に上擦ってしまいそうになる声をどうにか押さえて北陸は問う。
「ねえ北陸」
問う台詞に被せるよう、上越が声を上げた。
「3時のお茶時でも問題ないんだろうけど、僕はともかく君に何かあると困るから」
話を変えられたらしいことに北陸は気付く。けれど、この話はもしかして、と口を閉じた。
「今日の仕事が終わったら、一緒に食べようか。…夜遅くにはなるけど」
「っ、はい! 何時でも、僕は大丈夫です!」
初めての、一緒に食べる約束。子供扱いなのが気にはなるけれど、それ以上に上越からの約束が嬉しくて、北陸は両手を握りしめ何度も大きく頷いた。
「うん。じゃあ、また夜にね」
そう言って上越は再び弁当を食べ始めた。北陸は椅子に座り直すとうきうきしながら湯呑みを手に取った。
お茶を飲もうとして思い出す。口の中に残るチョコレートの微かな甘み。もうひとつの初めて。
「上越先輩、あの、さっきくださったチョコレートなんですが」
北陸が声を掛けるけれど、上越は何も応えない。ただ黙々と弁当を食べている。
「僕のために、買ってきてくれたんですよね」
弁当を食べる横顔をじっと見る。返る言葉はない。
「ひとつだけ、なんですか」
ことりと顔を傾け、重ねて訊ねる。やはり返事はない。
「もっと食べたいです」
テーブルに髪が触れるほど上体を傾けて、北陸は上越の顔を覗き込んだ。その視線をするりと受け流して、上越は相変わらず黙々と食べ続ける。
食べている横顔に思わず見惚れながら、もう一度口を開く。
「―――上越先輩」
強請るような声。形のいい上越の唇から、ふとため息がこぼれた。
「…欲張りだね君は」
「今更です」
にこりと笑う。囁くようにもう一度、先輩、と呼ぶ。
「口、開ければ」
「! はいっ」
にこやかに応じて口を開くと、上越にじとりと睨まれた。その鋭ささえ今の北陸には心地良い。
上越はもう一度大きくため息をつくと、傍らに置いてあった小さな箱から、チョコレートをひとつ取り出した。
<了>
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