地下から地上へ出る瞬間、眩しさに目を細めるのはいつものことだ。瞼を瞬かせながら、時計へ視線を走らせる。一日の営業時間のちょうど真ん中、折り返しの時刻。長針と短針の位置を見て副都心は満足そうに頷き、前方の駅舎へ目を向けた。
和光市駅のホームへ進入した車両は定位置でぴたりと停車した。排気音と共に開く扉からホームへと降り、大きく伸びをする。少しばかり肩に乗っていた緊張を解そうと大きく息をついて、今到着したばかりの車両を見遣った。
今のところ何の問題もなく定時で運行できている。開業当時ダイヤを大混乱させた自分としてはかなりの進歩だ。思わず顔が緩みそうになる。これも有楽町先輩に掛かればきっと『定時運行なんて当然だ』と言われるような気がする。けれど、そろそろいい加減にいいところ見せなきゃダメだなと思っていたから、やっぱり嬉しい。
軽く浮かれながら休憩しようと缶ジュースを買いに行く。その途中、反対側のホームに先輩の姿を見つけて思わず足を止めた。どうやら出発待ちらしい。片手に缶コーヒーを持ったままひとりでホームのベンチに座っている。
これは悪戯のチャンス―――いや、先輩とのコミュニケーションをはかる良い機会かもしれない。出発までそんなに時間は空いていない筈なので、隣のホームへと急ぎ向かうことにした。
エスカレータを駆け下り、反対側のホームへ続くエスカレータを駆け上がって、先輩が向いている方向とは逆から回り込む。背後からそろりと近付いた。手が届くところまであと三歩。まだ気付かれていない。残り二歩。なんだか楽しくなってきて口許が緩む。最後の一歩。
真後ろに立っても気付かない先輩の肩に腕を伸ばして、不意に覆いかぶさってみる。
「せーんぱい、おひとりですか?」
「う、わ!」
触れた瞬間びくりと肩を揺らし、驚いたように声をあげて先輩が後を振り返ろうとした。その姿に思わずにんまりと笑みを浮かべ、肩越しに顔を覗き込む。
「ああ、なんだ副都心か。驚かすなよ…」
「なんだ、って、酷くないですか? それはそうと先輩、今日は僕、絶好調みたいです。定時きっちりですよ!」
テンション高めなまま、取り付いた肩を軽く揺らしながらいつもの調子で告げた。『まったくお前はいつもいつも…』なんてぶつぶつとぼやいていた先輩が、拍子抜けするくらい普通の様子で首を捻り視線だけこちらへ向けた。
「あのな、俺達は定時運行できて当たり前なんだぞ。それが普通に出来るよう頑張れ。…ていうかくっつくなよ、暑いって」
返ってきた台詞はさっき考えていた通りで、思わず笑ってしまいそうになる。本当に分かりやすい人だ。
「大丈夫ですよ、僕は暑くないですから! そんなことより、最初の頃に比べればかなり良くなってると思うんです、僕。少しくらい褒めてくださいよ〜」
今貰った返事をほぼ無視するような恰好で畳み掛ける。こんな後輩と併走していて、更に面倒までみなきゃいけない先輩は大変だと思う。でもこれは色んな意味で不可抗力、なので許して欲しい。…なんて知られたら多分、いや絶対に怒られるだろうことを考えながら、更にぴったりとくっついてみる。
暑いって言ってるのに、と先輩は愚痴るように口走ると、身体を捩って振り返った。
「お前な、確かに良くなってるけど、有り得ないくらい酷かった頃と比べるのはなんか違うだろ…?!」
湧いてくる怒りを大人気ないと自ら押し込めているような、そんな口調で訊ねられた。もうひとつつきしたら次こそ怒鳴られそうだ。
でもそれより何より、何気に褒めてくれたことと、先輩がこっちを向いてくれてることが嬉しい。言われた言葉には『その通りです』と思いながら、でももっとちゃんと褒めて欲しくて、反対に首を傾げてみせる。
「…僕、先輩に褒められて伸びるタイプなんです」
「は…?」
絶句した先輩は、呆れて困って戸惑って途方に暮れたような表情を浮かべて僕を見ていた。思わず見惚れそうになる。
視線を合わせたまま先輩の肩口に頭を懐かせ、『だから褒めて』とねだるよう更にじっと顔を見詰めた。その体勢のまま、視線を逸らさずに十数秒。すると先輩は根負けしたように、仕方ないなという様子で浅くため息をついた。間もなく手が伸びてきて、くしゃりと頭を撫でられる。その優しい感触に思わず目を瞑った。
「定時運行、頑張ったな。その調子で最終まで恙無く頼むよ」
「はい! 任せてください!」
頭を起こし満面の笑みを浮かべて大きく頷くと、先輩もどこか嬉しそうな顔で笑ってくれた。
「次の発車まで時間あるんで、一緒に休憩していいですか?」
「ああ、うん。隣座るか?」
「はい♪」
先輩の肩に寄りかかっていた身体を起こしてぺこりと頭を下げる。ベンチの端を回って隣へ行こうとして、ジュースを買ってきていないことを思い出した。
「先輩、まだ時間ありますよね? 僕、飲むもの買ってきます」
「時間ならまだ少しあるけど、―――ああ、ちょっと待て。これやるよ」
ジュースを買いに行こうとして、はたと足を止める。おいで、と手招きをされたので隣へと歩み寄り、何やらビニール袋の中をがさごそと探る先輩の隣に腰を下ろした。間もなく目の前へ差し出されたのは、ココアの缶だった。
「はいこれ」
手を伸ばして缶を受取り、見覚えのあるデザインを見下ろして、再び首を傾げてしまう。
「…先輩、こんな甘いのいつも飲んでるんですか?」
メトロの控え室ではいつもコーヒーを飲んでいたような気がする。ちょっと意外だなと思って何気なく訊ねると、きょとんとした貌で見返された。
「俺は飲まないよ? それ、新線の頃好きだって言ってよく飲んでただろ。定時ならそろそろ着く頃だなと思って買っといたんだ」
先輩は昔を思い出すようにして笑うと、前を向いて缶コーヒーを口許へと運んだ。その横顔を見ながら、自分のために準備してくれていたことを嬉しく思う一方で、胸の奥の方が微かに痛くなったような気がした。
つづく
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