2010.09.25 UP

無意識の意識
〜2〜


 胸許へそっと手を当てて、浅く息をつく。それから改めて缶を両手で持ち、隣に座る先輩の顔を覗き込んだ。
「ありがとうございます。いただきま〜す」
「ん」
 頷く先輩の横顔から手許の缶へと視線を移して、プルタブへと指を掛ける。引き上げようとしたところでふと、背後の方から何やら気配を感じた。途中で手を止め、何の気なしに振り返ってみる。と、両手を大きく広げたままこちらへ向かってやってくる武蔵野サンの姿が見えた。
「ゆーらくちょ〜う! ここいたのか〜」
 間延びした能天気な声。それに気付いた先輩も振り返る。あ、と思う間もなく、近付いてきた武蔵野サンが先輩の背中に負ぶさるような恰好で圧し掛かってきた。
「っうわ、武蔵野か? 圧し掛かってくるなよ、重いし暑いって!」
 肩の上で揺れるこげ茶の髪を見上げため息をつきながら、先輩は後ろから廻された武蔵野サンの腕に手を掛けて引き剥がそうとした。
「うわ〜、何、ご機嫌斜め中〜? …あ、判った。また副都心が何かしたんだろ〜」
「…どうして僕なんですか。それを言うならむしろ武蔵野サンでしょう」
 勝手に先輩に圧し掛かるなんて一万年早いですよ、と言ってしまいそうになるけれど先輩の手前、喉の奥に呑み込む。掛けられた言葉の訂正をすると武蔵野サンは圧し掛かる肩を反対側へ変え、こちらへと軽く身を乗り出してきた。
「あらま。最近ちょーっと調子良いからって、言うようになっちゃって………おにーさん悲しい…ッ!」
 く、とハンカチを噛み締めるような仕草で武蔵野サンが言う。そんな風に言われるような心当たりは全くない。というか先輩にいつまでくっついてるつもりですかこの野郎。自分で引き剥がそうと悪戦苦闘している先輩の様子を見つつ手を出すタイミングを窺いながら、むっとして口を出す。
「僕の努力が実を結んだ、当然の結果です。…それより武蔵野サン、いつまで先輩にくっついてるんですか」
「うん? あれ、副都心ったらやきもち〜?」
 泣き真似していた顔が一転、にやにやとした笑みを浮かべると更に先輩の肩へ顔を寄せて見せた。僕の目の前でそこまでするなら、と手を出そうとした瞬間。さっきからどうにかして抜け出そうともがいていた先輩が、渾身の力を振り絞って武蔵野サンの頭をぐいと押し退け、声を上げた。
「だから武蔵野、いい加減にしろって! どうせまた止まったって連絡だろ?」
「あれ〜ぇ、わかっちゃった? ご明察〜」
 顔に手を掛けられ押し退けられた武蔵野サンは、緩い感じで笑いながら両手を挙げて先輩から離れた。半身振り返り背もたれの上に片腕を置いた先輩が、はああと深くため息をつく。
「東上には言ってきたのか?」
「いんや、これから。先に有楽町見えたからさ、言っておこうと思って〜」
「そっか。…まぁ、理由は聞かないでおくけど、早く復旧しろよ?」
「わ〜かってる、って〜。じゃ、そういうことで、よろしくな〜」
 先輩の台詞に武蔵野サンはいつもの信用ならない笑みを浮かべてみせ、ひらひらと手を振りながら踵を返した。
 ふらりふらりと漂うように歩き階段を降りていくオレンジ色の背中をふたりで見送る。姿が見えなくなると、先輩はベンチの背もたれに身体をどさりと預け直して、またため息をついた。
「…武蔵野サンは相変わらずですね」
「あー、そうだな…。ほんと、もうちょっとしっかりして欲しいよ」
 疲れたように笑う先輩の横顔を見ながら、ふと思うところがあって、手を伸ばした。それに気付いて首を傾げる先輩に構わず、横から向こう側の肩へと手を廻し抱きつくようにして寄りかかる。
「? …どうかしたのか、副都心?」
 重いぞ、と少し苦笑めいた貌で、先輩が宥めるように肩をとんとんと叩いてくれた。少し視線を上げて顔を見遣る。
「さっきの武蔵野サンみたいに、しないんですか?」
「ん? 何を?」
 訊ねると、先輩はきょとんとした貌で首を傾げた。表情と様子から、本当に分かってない気がした。
 他の誰かが同じことしたらどうするのかは分からないけれど、そんな検証はしたくない。とりあえず僕は大丈夫だってことが分かったから、それでいい。
「いえ、何でもないです」
「そうか? なら、いいけど」
 変なヤツだな、と軽く肩を揺らして先輩が笑う。半ば抱きついたような恰好のままぽんぽんと頭を撫でてくれるのが、気を許してくれてるようで嬉しいような、でも子ども扱いのようで悔しいような、複雑な気分になった。
「…先輩、今日定時で上がれたら、軽く何か食べに行きませんか」
「ああ、いいよ。そしたらお前は定時運行継続できるよう頑張れ」
「もちろんです。あ、でも先輩も頑張ってくださいね? 僕ひとりで定時上がりしても、一緒に行けないんじゃ意味ないですから」
 肩へ廻していた腕を解いて身体を起こし、にっこりと笑ってみせる。
「お前が言うな、お前が! …あーもう本当にお前ってヤツは…」
 はああ、と何度目かになるため息をついた先輩が、残っていた缶コーヒーを飲み干して立ち上がった。
「まぁ、それじゃあオレは時間だし先に出るよ。…副都心、また後でな」
「はい♪ あ、先輩、ココアありがとうございました!」
 歩き出した背中にそう声を掛けると、先輩は肩越しに振り返り軽く手を振ってくれた。ぶんぶんと手を振って見送る。
 和光市発、新木場行。出発のアナウンスが流れ、間もなくドアが閉まった。ゆっくりと走り出した車両は徐々に加速していき、和光市駅を出ていった。姿が見えなくなるまで見送ってから、残っていたココアを飲み干す。もう少ししたら僕も出発する時間になる。
「さて、と。終電まで頑張りますか」
 先輩とデート♪ と歌うように唱えながら、自分の車両へと戻ることにした。




<了>

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