果て無き道程
〜1〜

 ありとあらゆる身体の感覚が失われていく。刻一刻と狭まって行く知覚範囲の中、けれど、或る一点から狂おしい程に甘く香る『何か』だけが、明瞭とした輪郭を保っていた。
 半ば本能的にその『何か』へと全神経を集中させる。甘い。ただひたすらに甘い芳香。
 瞬間、目の前に広がったのは、柔らかく肌理の細かい滑らかな肌色。衝動に駆られる侭、口を大きく開き、歯を立てた。
 フォークの先端に押されたクレープが、微かな抵抗を最後にふつりとその内側へ金属を受け入れる瞬間にも似た、心地良い感覚。深々と食い込んで行く歯は、柔らかいシフォンケーキにナイフを入れた時の様に細密かつ滑らかな感触を拾う。
 くらり、と目眩にも似た酩酊が脳裏を襲い、そして。
 飢えた口が、甘い蜜を喉一杯に吸い込んだ。



 至福だった。先刻まで全ての感覚が失われていた身体に、命の息吹が戻っていく。喉を通る蜜は際限無く甘く、唇に触れる『何か』はこの上無く馨しかった。
 その一方で、何故か無性に涙が溢れてきた。何が悲しいのだろう。此れほどに甘い蜜を知らなかった今までの生か。これ以上の甘い蜜は二度と得られぬだろうという予感か。
 否。甘い蜜を一杯に頬張る唇の下、直に触れている『何か』が次第に熱を失い瑞々しさを欠いていく様が、無性に悲しかった。己に満ちていく命とは正反対に、その『何か』には死が満ちていく。それが、悲しかった。涙が止め処無く溢れていった。
 ふと、思考の片隅に灯りが点る。村人に好かれたいのに、発作が起きる度に人を殺めてしまい更なる憎悪をかってしまう自分。悲しくて、けれどどうしたらいいのか判らなくて、ただただ涙を流しているといつも、慰めてくれる人が居た。柔らかく肩を抱き、大丈夫、と言ってくれた、ただ一人の彼女。
 彼女は何処に居るのだろう。もう、来てくれないのだろうか。大丈夫だとは言ってくれないのだろうか。―――泣いてばかりの男は情けないと、愛想を尽かされたのだろうか。
 彼女は、―――彼女の名は、何と言ったか。彼女の、名は。
『―――エリアーデ』
 身体に満ちた命の息吹が視界を甦らせた瞬間、血の気を失い冷たくなった肌で笑ったのは、エリアーデだった。

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