蠢動




 窓辺から望む景色は何時もと変わり無く、茫洋とした暖気が漂っていた。
 寝台に乗り背を壁に預けるという格好で陽光の差す風景を眺めていた口許が、久しぶりだ、と呟くに至り、壁の反対側で正座をし書物へ視線を落とす唇が動いた。
「静かだろうが榎さんが来ようが、君は変わらないじゃないか」
 何を言って居るんだ、という風な口調で、視線を上げること無く淡々と綴られた言葉に、気怠げな所作で視線を向ける。
「榎さんは関係無いだろう。……静かだし、気分がいいなと―――」
「関係ある。まぁ、周りが何をしていようと、君の胡乱さ加減は変わらない」
 反論を述べようと開きかけた唇は、過去幾度となく交わされた無為な言葉の応酬を反駁し、結局は閉ざされた。遣り込められ鬱々とした心持ちの侭口を閉ざすのが今の自分では精々だ、そうなる前に止めた方がいい。折角心安らかな一日になりそうなのに、自分からそれを放棄するのも癪だった。だから、一度向けた視線を外し再度窓の外へと視線を送ったのだが。
「なんだ、今日は反論はしないのかい」
 何処か面白がる様にも聞こえる相手の言葉に、しないよ、と溜息混じりに呟いて返し、己の膝に頬杖をつく格好で、呆と景色を眺めつつ此処暫くの出来事に思いを馳せた。



◇   ◇   ◇





 引き合わされたのは、何時だっただろうか。つい先日だったような気もするし、もう随分と前のことの様な気もする。時間感覚が随分と曖昧なのは、それだけ、彼と知り合ってからの生活が変わったからに他ならない。



 鬱気質の関口にしてみれば数少ない馴染む性質―――偏屈と評される事が多いが―――の中禅寺は其の日、「会わせたい人が居る」と言って関口を部屋から連れ出した。自由になる時間の殆どを部屋での読書に費やす彼が自分から人を紹介したいと言う事は本当に珍しく、胸の内に湧いた興味に引き摺られる様にして部屋を出た。
 引き合わされた相手を見て、一瞬己が目を疑う。周囲から見れば屹度呆けて居る様に見えたに違いない。
 色素の薄い両の瞳。希臘彫刻の如き秀麗な面差し。目の前に立って居たのは、学内における一番の有名人物、榎木津礼二郎だった。中禅寺が簡単な紹介を終え、慌てて頭を下げる。向き直るや否や「猿に似ている」という評を返されて再び呆然としてしまう。初見の相手に真っ向からこういった言葉を向ける者は、そうは居まい。
「先輩は躁病だから、彼を見習うといい」
「猿に見習うことなどないぞ。君こそ僕を見習い給え!」
 幾分強く肩を叩かれ体勢を崩し、思わず咽る。
「猿じゃありませんよ、関口君だと紹介したでしょう」
 本当に人の名前を覚えない人だ、と中禅寺が溜息をつく。榎木津は関口の肩へ手を置いた侭くるりと貌を向けて片眉を上げた。
「覚えて居るとも、彼は関君だ!」
 なぁ関君、ともう一度肩を叩かれ今度は咳き込んでしまう。それが頷きに見えたのだろう、胸を張り勝ち誇った様な声音で彼は、ほうらみろ、と笑った。



 それからと云うもの、何処か気に入る所でもあったのだろうか、事或る毎に榎木津は関口を部屋から連れ出すようになった。中禅寺も稀に同行したが、多くは関口一人を御供として彼方此方へと連れ回し、色々な所へ貌を出した。
 既成の枠に嵌らぬ天衣無縫な振舞いは確かに新鮮で、尚且つ非常に魅力的だった。ただ、惹かれはするが其れは矢張り刺激に過ぎていて、関口の神経を少なからず摩り減らした。
 慣れるにはそれなりの時間が必要、ということだろう。



◇   ◇   ◇





 何時もなら疾うに榎木津の来襲があり、首根っこを掴まれ引き摺り出されていく関口の姿が廊下で見られる時刻だったが、未だに寮内は静けさを保って居た。差し込む光に目を細め緩く息をつき、ゆっくりと四肢を弛緩させる。久方振りの静かな時間、少し離れた所から届く微かに頁を捲る音が、その程度を示している。
 高鳴る鼓動の代わりに身を包む静かな空気。心地良いと思う一方、物足りないと思いもする自分に気付き、少なからず驚きを覚える。他者と関わる事は須く厭わしいものであり何よりも孤独を好んでいた己とは思えぬ変化だった。
 脳裏に、榎木津の姿が浮かぶ。
 先輩、と呼ぶよりも、榎さん、と呼ばれることを好んだ彼は、食堂でも廊下でも、関口を見つけると必ず名を呼び珍獣でも見る様な面持ちで自らが猿と評したその貌を覗き込んだ。至近距離で整いきった貌を見るという行為は関口を赤面させるに十分なもので、猿が紅くなった、とその様子を見た榎木津は嬉しそうに笑った。
 断片的に思い出される光景は何故か胸を騒がせた。比べる事自体が愚かしい行為だが、ビスクドールの如き日本人離れした貌も、すらりと伸びた長い手足も、人並み外れて優秀な頭脳と身体能力すら兼ね備え、黙ってさえ居れば万事非の打ち所の無い人物だった。
 ふ、と関口の口許が緩む。彼を彼足らしめて居るのは屹度、そういう所では無い。それらは確かに彼を形成するものだが、それだけでは此れほどに惹かれまいと思う。
 天衣無縫、天真爛漫、屈託は無く何者にも諂わない高潔な精神。
 何よりも、子供の様に邪気の無い笑顔と、横顔に時折映り込む、何かの影。
 脳裏に浮かぶ彼の人の姿に、僅かばかり鼓動が跳ねる。寝台についていた手の平が、知らずシーツを握り締めた。



 ふと視界が翳る。反射的に貌を上げた瞬間。
「何を呆として居る」
「ぅ、うわあ」
 至近距離で不意に話し掛けられ流石に吃驚し、壁に凭れて居たにも関わらず後退った所為で後頭部を強かに打ち、頭を抱えて背を丸めた。頭上からは高らかな笑い声。
「あははははは。猿が貌を真っ赤にして狼狽えて居る!矢張り関の叫び声は逸品だッ」
 鼓動がこめかみの近くで激しく音を立てていた。思い返されて居た当の本人が、突然目の前に秀麗な貌を近付けた格好で現れたのだ、無理も無い。
 未だ目を白黒させて、笑う貌を見上げた。止まぬ笑いに向こう側の壁際から酷く不機嫌そうな声が響く。
「関口君をからかうのは構いませんが、僕の読書の邪魔はしないで下さい」
「なんだ、居たのか。余りに静かだったから居ないと思って居た」
 肩口で振り返った榎木津は、僅かに目を細めにやりと笑う。
「榎さんはこの階に来た時点で判る。床を踏み鳴らす足音が余りに五月蝿い」
「突然現れると下僕どもが慌てふためき狼狽えてしまうからな」
 先触れだ、と嘯いてもう一度高らかに笑い、関口に向き直る。
「書痴の戯言はどうでもいい。セキ、出かけるぞ」
「きょ、今日は実家に帰ると言って居たでしょう、どうして―――」
 腕を掴まれるに至って漸く機能し始めた思考、未だ狼狽えた儘に貌を見上げる。
「どうしてもへちまも無い!帰る理由が無くなったから猿を御供に遊びに行くのだ!」
 片腕を横へ振り手の平を広げ、力説する。矢張り理由は判らない。こうなると幾ら問うても解る理由は得られない。はぁ、と幾分脱力し己が膝元へ視線を落として、胡乱な返事とも溜息ともつかぬものを零してしまう。榎木津はそんな関口の腕を掴み、ずるずると寝台の上から引き摺り下ろす。
「さぁ、出掛けるぞ関君。帰ってきたら猿按摩だ!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ………あの、出掛ける用意くらい…」
「榎さん、ちょっと待ってくれ」
 扉の手前で如何にか自分の足で立ったものの、歩きだした榎木津を留められる訳は無く。締まる瞬間の扉の隙間から、中禅寺の盛大な溜息が聞こえた。
「榎さん、待って、……ひとりで、歩けるよ…」
 途切れ途切れ乍らも必死の訴えに歩き乍ら振り返った榎木津は、不思議そうに首を傾げ目を瞬かせた。
「猿だから心配だ。いいからちゃんとついて来い!」
 に、と笑うとまた真っ直ぐ前を向いて大股で歩き始める。身長も違えば歩幅も違う、一緒に歩くのは骨が折れる。それでも、また引き摺られるのは御免だ―――――関口は、片腕を取られた儘、必死に後を追う。
「え、榎さん、何処へ行くのさ」
「買い物に行くぞ!猿は荷物持ちだ」
「…前みたいに沢山買わないで下さいよ。僕は非力なんですから―――」
「安心しろ。餌付けくらいしてやる!」
 再び廊下に高笑いを響かせる。傍若無人なのだが憎めないから性質が悪い。
 大きな溜息をひとつ零し、夕飯くらいお願いしますよ、と零すと、任せておけ、と快活な返事が返ってきた。





<了>





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