均衡の綻び |
伸ばした指先で、瓶の口を突付く。ゆらりと揺れてごとんと横倒しになる酒瓶。飲み干され横に倒された酒瓶が幾つも転がる部屋を見回しながら、村雨が溜息をついた。 「サシで飲むのは初めてだけどよ……結構いける口なンだなァ」 ほとんど素面のまま、手にした御猪口を口元へと運びぐいっと飲み干す。と、すかさず蓬莱寺の腕が伸びてきて次の杯を満たしていく。 「まァな―――」 少しだけ紅くなった頬を親指で擦り、少し得意そうな貌をして、手酌で杯を重ねる。 村雨の今日の戦利品だった筈の何本もの酒瓶が、あと残り僅かになってしまうほどに飲んだというのに、ふたりとも酔っているのかいないのか判らない。存在をほとんど忘れ去られたテレビが、最近流行りの曲を流し始める。ちかちかと明滅する画面をなんとなく見ながら、蓬莱寺が深く溜息をつく。 「やっぱふたりだけだと静かだなァ」 言いながらごろりと身体を傾け、村雨の片腕に全体重で寄り掛かる。重いから退け、と少し凄んで見せる村雨に、へへっ、と笑みを返しながら、そうだ、と妙案でも想いついたように声を張り上げた。 「大将とかひーちゃんも呼ぼうぜっ」 「……今、一体何時だと想ってンだよ」 草木も眠るなんとやら。そんな刻限をとっくに過ぎた今では、電話などとんでもない。けたけたと笑いながら、そうだよな〜、こんな時間に呼び出すなんざ、糞真面目な大将辺りに締め上げられらァ、と調子の好いことを言う蓬莱寺の頭をこつんと小突く。 「痛っ…てェな〜」 言葉とは裏腹、微塵も痛いとは思えない表情でまたけらけらと笑う。 「御前、ちょっと黙っとけ」 「っ?……っ」 寄り掛かられた腕が熱い。蓬莱寺の頭を受け止めたまま体勢を整え、もう片方の手で直ぐ近くの頤を持ち上げる。酒の所為だろうか、少しだけ仄紅く染まった目許に、不覚にもくらりと眩暈。そのまま貌を寄せ、熱を確かめる。微かに感じる吐息に目を細めながら、ゆっくりと唇を合わせ――――――― 「……一寸待て。御前、さては最近流行のアレか?」 合わせる寸前で貌をぐいっと押しやられ、動きを止められてしまう。こういう場面で不覚を取るほど初心ではない筈の村雨。苦笑を口の端に浮かべ、己が胸を押し返している腕を逆に掴み返した。 「アレってな、なンだ?」 「…………アレ、て言ったら、アレ…だろ」 名称が思い出せないのか判ってて表現を濁しているのか。口調に歯切れが無くなった蓬莱寺の腕を更に引き、自分の膝の上に引き倒す。酔っている所為なのか不利な体勢に持ち込まれたことを認識していないらしく、村雨の膝の上に頭を乗せたままただただ見上げてくる瞳の色は、いつものそれと全く同じだった。酔って上気している所為で確かに色は増しているものの、背中を預けあって腕を揮った闘いの最中、振り返ればいつも其処にあった瞳と同じ色。 ふと、膝の上で蓬莱寺を押さえ込んでいた村雨の腕の力が弱くなる。何がしたいのか判らないといった風情で、訝しげな表情を浮かべた蓬莱寺が膝の上から身体を起こそうとする。息を潜めるようにして、村雨はその動きをじっと見ていた。 「……なんなんだよ、御前」 非難する訳でも問い詰める訳でもない、聞き慣れたいつもの声。受け入れている訳でもなく、拒絶している訳でもない、強い光を放つ瞳。 現れた光を目にし、密やかに息を吐くと僅かに目を細める。 「なんでもねェ」 呟くように告げながら、村雨は直ぐ脇に置かれていた御猪口を手に取りぐいっと酒を呷った。口に含んだまま蓬莱寺の頤を引き寄せて唇を合わせ、無防備に開かれた唇の隙間から半分を流し込む。それを跳ね除けもせず受け入れ、蓬莱寺は口移しで注がれた酒をこくりと飲み干した。 は、と息をつき、酒の為に薄く朱を引いたような面を上げ、じっと村雨を見詰める。 「今のは……なんのつもりだよ?」 「…別に、なンにも?」 急におどけるような笑みを造って肩を竦めて見せる村雨に、眉を顰めた蓬莱寺が胸板を押し返そうと左の拳を突き出す。それを手の平で受け止めた村雨は、はぐらかすように片眉を上げた。 「さて……酒にでも酔ったかなァ…?」 「どの面下げてンな冗談言ってんだ、御前ッ」 つられるように蓬莱寺の相好が崩れる。酒の席での悪ふざけ。今はまだ、そう取られても、いいのかもしれない。言葉に続いて繰り出された右の拳を易々と受け止めて、危ねぇな、と村雨が喉奥で微笑った。 「さて…と。まだ飲むか?寝るンなら、毛布くらいは貸してやるぜ?」 ふたりが座る所から反対側の壁際に据え付けられたソファベッドを顎で示し、ゆらりと立ち上がる。それを見上げながら蓬莱寺がこくりと頷きを返した。 「そうだな………あぁ、そういや明日補講があるんだった…」 朝っぱらから鬱陶しいぜ、と呟きつつ見上げた先で時を刻む時計は、23時30分を指していた。やべェ、と僅かに顔色を変えて呟く蓬莱寺に手を伸ばしグラスを奪うと、村雨は残っていた酒を一息に呷り、俺の酒に何すんだッ?!という大声を背中に受けながら寝室へ向かう。毛布を持って居間へ戻ってくると、慣れた風にソファの背凭れを倒しベッドを作っている蓬莱寺に苦笑した。 酒盛りだ麻雀だと龍麻達を巻き込み泊まって行く彼にとっては、言わば『勝手知ったる場所』となっている村雨の部屋。近付く村雨の気配に気付き無意識に手を伸ばして毛布を受け取ろうとする仕草を眺め、思わず口元が緩む。伸ばされた手を避けるように身体を動かし毛布が取れない位置へと移動すると、毛布を掴もうとしていた蓬莱寺の手が空を切った。その様子に、更に笑みが深くなる。 「……なに気味悪ィ薄笑い浮かべてンだ?毛布寄越せって」 あからさまにむっとして睨んでくるその貌に、ばふんと毛布を広げて投げる。当然頭から毛布を被る格好になってしまい、てめぇ、なにすんだっ?! ともがく蓬莱寺に、今度こそ声を上げて村雨は笑った。 「悪ィ、手が滑っちまった」 くっくっと喉の奥で意地悪く笑う同級とは思えない容貌を睨むように見上げ、無言で手近のクッションを投げ付ける。危なげなくそれを受け止められ、小さく舌打ちが零れた。 「枕、要らねェのか?」 「莫迦野郎、返せッ!」 腕の中へ大人しくぽすんと返されたクッションを抱え、蓬莱寺が深く溜息をつく。 「ヒトの事からかってんじゃねぇッ!……てめーもとっとと寝やがれっ」 相手にするには分が悪いと思っているのか学習したのか。好いようにあしらわれてしまう自分に歯噛みしながら、いつかきっと吠え面かかせてやる、とでもいうように拳を握り締め、それだけ言うとばさりと毛布を被ってさっさと寝る態勢に入ってしまう。 人の居間を借りて寝ている身だという自覚が微塵も見えない態度にひとつ息をつきながら、ひらりと手を振り部屋を出て行く。 「あぁ、俺ァ起こさねェからな、自分で起きろよ?」 言い残していく村雨の背中に、判ってらァ、とぶっきらぼうに投げられる声。肩を揺らして笑いながら寝室へ入り、ベッドの上に村雨は自分の身体を投げ出した。 上着くらい脱がなければと思いつつ、ついうとうとしてしまったらしい村雨が、ベッドの上ふと目を開いた。なんとなく頭を掻きながら、ふと腕時計を見遣る。淡い光にぼんやりと浮かび上がった現在時刻は23時55分。ぱたりとベッドの上に持ち上げていた腕を落として暫し天井を見ていた村雨は、やおらむくりと起き上がった。 寝室のドアを抜け、脚を向けた先は―――――居間のソファベッドで眠る、蓬莱寺の枕元。 カーテンの隙間から差し込む月明かり。闇の中浮かび上がる寝顔は年相応。 いつもの自信に満ちた表情も好いけれど、偶にはこういう顔も好い。そんなことをぼそりと呟きながら、傍らに胡坐をかいて座り込む。丁度目の前に、眠る彼の顔。 「判ってンのか、判ってねェのか―――――」 小さい溜息と共に呟く横顔に、僅かばかり垣間見える、ほんの少しの逡巡。 つと伸ばした指先が頬に近付き、ほんの僅かの距離を置いて止まる。身動ぎもせず貌を見詰めたまま固まっていた影が、突然鳴った時計の音にびくりと動揺した。 「……12時、か…」 呟くと拳をぎゅっと握り締め、それを己が膝の上に収める。そうして視線だけでただ眠る横顔を見詰め、苦笑めいた吐息を零しながら目を細めた。 もう一度腕時計を覗き込み、日付を確認する。苦笑めいた色を浮かべた貌が、ゆるりと微笑みを形作った。膝の上に肘を乗せ頬杖をつき、眠る横顔をじっと見詰める。 「……誕生日だな………おめでとさん」 暫くは同い年だな、と小さく呟き、額をこつんと小突く。微かにむずかる仕草を微笑いながら見遣り、息を吐きながら立ち上がる。 「いつまで……持つか」 判らねェな、とひとりごち、親指の腹でゆるりと頬を撫でる。その感触に零れる微かな声に、一見穏やかそうな微笑みが落ちた。 眠る蓬莱寺を眼下に見遣り、村雨は静かにその場を後にする。 寝室の入り口、ソファを振り返る貌には、影が落ち。過ぎった表情は誰に見咎められることもなく、ドアの向こうへ消えていった。 <FIN> |