実習の後片付けはテストの採点よりも早く終えることができた。その差はテスト用紙1枚分。先生は『つまらん』と言っていたけれど、そんなに厭そうな顔はしていなかった。
そして俺は約束通り、先生の家へ遊びに行くことになった。
帰る途中でスーパーに寄り食材や酒を買い込んで、先生のアパートへと向かう。特に何を話すでもなくただ先生の背中を眺めながら歩いていくと、やがて見覚えのある建物が見えてきた。先生がもう長い間住んでいるアパートだ。
修行してきた成果を見せようと術を使って悪戯を仕掛けたのは今朝のことなのに、もう何日も前のことのように思える。先生曰く『お前には向いていない』術を立て続けに何度も使ったうえ、久しぶりに訪れた母校がなんだかとても懐かしくてあちこち見て回っていたから、少し疲れているのかもしれない。
ちょっとだけ、と旧校舎にまで足を伸ばしたのもよくなかったかな、と頭を掻きながら、先生に続いて部屋へと入る。
「おじゃまします―――、…?」
扉を潜った瞬間、空気の質が変わったことに気付いた。しんしんと雪が降り積もる深い森のような静けさと、学校に居る時よりももっと濃密な先生の―――獣の気配。
取っ手から手を外すと、扉はひとりでに閉まった。ぱたん、という扉の音と共に、閉じられた空間に這入り込んでしまったような、そんな奇妙な感覚がして、軽く背筋が粟立った。そういえば今朝、部屋へ意識を潜り込ませようとしてなかなかうまく行かず大分苦労したなと思い出す。他人に干渉されることを余り好まない人だから、何か仕掛けをしているのだろう。
「何してる。ぼーっと突っ立っていないで上がれ」
「…っ、はい」
声を掛けられて、はっと我に返った。ビニール袋を両手に提げたまま靴を脱ぎ、言われるまま部屋へと上がる。
必要最低限の家具しか置かれていない、飾り気の全くない部屋。主が居なくても一目で『男の一人住まい』だと判る程に殺風景な室内を見廻し、持っていたビニール袋を床へ置く。
「それじゃ先に作りますね」
「ああ。…その辺りにある物は好きに使って構わん。入れ物は上の棚にある」
指差された方を見上げると、流しの上に作り付けの戸棚があった。よし、と腕捲りをして、準備に取り掛かる。
ビールと刺身を古びた冷蔵庫へしまい、唐揚げや乾き物は脇へ避けておく。そんなに時間を掛ける積もりはないけれど、先生の家へ遊びに行けたなら折角だから修行の合間に覚えた料理の腕を披露してみたい、と、日本へ向かう飛行機の中で色々と考えていた。
出来合いの唐揚げはちょっと手を加えて南蛮漬けに、豚バラと今が旬の筍は醤油煮込みにして、刺身はづけにしたいところだけれど時間がないからそのまま出すことにする。ざく切りトマトと白菜の柚子胡椒あえは自分の趣味。米は普通に炊いておいて、塩結びにでもしよう。
壁へ斜めに立てかけられていたまな板とその側に置いてあった包丁は、大分使い込まれていた。―――先生が自炊、しているんだろうか。
「…似合わない」
包丁を握り台所に立つ先生、という光景を脳裏に思い浮かべ、軽く吹き出してしまう。やっぱりコンビニ弁当だろう、と思ったけれど、感覚の鋭い先生のことだから味にはうるさいんだろうな、とも思う。『こんなモノ喰えるか』とかぶつぶつ言いながら自炊する姿は、それはそれで想像できるような気もした。
「何を笑ってる」
「なんでもないです」
訝しげな先生の声に、しまった、と心の中で舌を出す。僅かな気配でも気付く辺りはさすが先生だ。でもここで正直に答えたなら絶対に怒られるから、しれっと惚けてみせた。声と同じく訝しげな先生の視線を背中に感じながら、料理へと戻る。
着々と仕上がっていく料理を器に盛り、居間らしき部屋にあるテーブルへと運ぶ。
「最初、ビールでいいですか」
「ああ」
台所へ取って返し、ビールの缶を取り敢えず二本冷蔵庫から取り出した。煙草の火を消してテーブルの側へと腰を下ろした先生の前へ一本置き、自分の前へもう一本を置いて、同じように腰を下ろす。
テーブル狭しと並べた皿(テーブル自体が小さいことはこの際棚に上げておく。)にちょっとした達成感を感じながら、小気味良い音を立ててプルタブを開ける。乾杯でもしようかと顔を上げると、目の前で先生がテーブルの上に並べられた料理を何か奇妙な物でも見るような視線で眺めていた。
「…先生? どうかしましたか」
自信作の筈だけれど何か変な物でもあっただろうか。首を傾げながら訊ねると、いや、と先生は首を振った。
「器用だな」
「でしょう?」
自分でもそう思います、と続けると、先生が顔を上げた。重なる視線は何かを探るような色を浮かべていた。何を、という疑問と共に傾げた視界の先で、先生がふいと視線を外す。
「やはり、ヒトの10年は長いな」
どこか感心したような呟きと共にプルタブを開けた先生が、缶を片手で掲げて見せた。はたと気付き慌てて缶を手に持って同じように掲げる。
「酔狂で莫迦な教え子に」
「…相変わらず辛口な先生に」
言い返すような俺の台詞に、先生はまるで心外だとでも言うように片眉を上げた。その表情に思わず笑みが零れる。
「授業お疲れさまでした。…乾杯」
「…、ああ。…」
缶同士が触れ合い、軽い音が響く。共に無言で缶を傾け、一息で半分程、喉奥へと流し込んだ。
「っは−、やっぱり日本のビールはうまいですねぇ」
「そうか。…まぁ、そうだろうな」
「向こうのは、日本人向けじゃないですから」
頷きながら、料理へと箸を伸ばす先生をじっと見る。その視線に気付いた先生が、箸を付ける直前で動きを止め俺を見た。
「なんだ」
「や、…自信ないわけじゃないんですけど。…出来、どうかなと思って」
先生の反応が気になりすぎてじいっと見てしまっていた自分に、あはは、と苦笑する。ふん、と鼻を鳴らして、先生は箸を付けた。よく煮込んだ豚バラが一切れ口の中へ消える。
「…」
噛み砕き飲み込み終えるところをじっと見ている俺の視線を、先生はひどく居心地悪そうな面持ちで一度見返してきた。何か言われるかと思って一瞬身構える。けれど先生は特に何も言わず、もう一度皿へと箸を伸ばした。それを視線で追う。
豚バラと筍を数切れ、白菜の柚子胡椒あえを一切れ食べた先生は、あっという間にビールを一缶飲み終えた。そしてテーブルの上に並ぶ料理をもう一度見渡して、不意に呟く。
「悪くない」
「―――え」
先生が口にした言葉とその意味が頭の中でうまく噛み合わなくて、思わず聞き返してしまう。
「悪くない、と言った」
そう言うと先生は、空になった缶を片手にすいと立ち上がって冷蔵庫へと向かった。その後ろ姿をぽかんと見遣る。
なんだか、凄い言葉を聞いた気がした。
「っ、先生、…それ、ほんとですかっ?」
「三度も言わん」
冷蔵庫から缶を二つ取り出して戻ってくる先生を、まじまじと見詰めてしまう。
「先生が褒めてくれるなんて絶対何かある…」
「…俺をどれだけ非道い奴だと思っている」
「だって先生、テストで百点満点取ったって絶対に褒めないじゃないですか」
「取ったことない奴が言うな」
「あ、非道ッ」
元の場所に腰を下ろした先生が、俺の方へと缶を一本差し出してくれた。
「莫迦言ってないで飲め。―――飲みに来たんだろう」
「は、い…っ」
ちょっと、いやかなり嬉しくて、差し出されたビールの缶を満面の笑みで受け取った。
言ってしまえば『たかが料理』で嬉しがっている場合じゃあない。一生懸命に鍛錬してきた術は『巧くなった』と評されたけれど、点数にしてみれば僅か『十点』にしかならなかった。そもそも術の腕を見せたくてきたのに、料理を褒められても意味がないのだ。
とはいえ、『悪くない』と言った上、今もまた缶ビール片手に箸を付けているというこの光景は、それはそれで『悪くない』光景に思えた。こんなのは勝った負けたの話じゃあないけれど、なんだか先生に勝ったような気がして、気分が良い。
―――――まぁ、『餌付け成功』とか思ったことは、俺一人だけの秘密だけれども。
少し浮かれた勢いのまま一缶目を飲み干し、二缶目に移る。先生のたった一言でこんなに浮かれる自分が、自分の事ながら可笑しいと思うけれど、これもアリだろう。
「あ、先生、ビール終わりました? 焼酎作りましょうか」
「そうだな、…頼む」
「りょうかーい」
白菜を一切れひょいと摘んで口へと放り込み、立ち上がる。くしゃりと潰された空き缶を拾い上げ、流しへと向かった。
「俺も貰っていいですよね。―――コップとか、どこですか」
「上の棚に湯飲みがひとつある。御前が使え。…俺は碗でいい」
「え、?」
上の戸棚を開けようとしてはたと止まる。幾ら一人暮らしだからといって、コップ…というか湯飲みがひとつだけしかない、というのはどうなんだろう。知り合いとか客とか、来ないんだろうか。
と言ってもそれしか無いなら仕方がない。湯飲みと碗と、それから焼酎の瓶とポットを居間へと運んで、焼酎のお湯割りを少し濃いめに作る。そうして先生の前へ碗を、俺の飲み残しているビール缶の脇へ湯飲みを置いて腰を下ろし、湯飲みを両手で包み込む。温かさにほうと息をついて、先生を見る。
「…どうして、湯飲みひとつしかないんですか? 知り合いとか来た時困るでしょうに」
訊ねる俺を余所に、先生は碗を手に取って口を付けた。一口二口と焼酎を啜る横顔をじっと見ていると、不可解な事を聞いたような面持ちで先生は息をひとつつき、応えを待つ俺を見た。
「一人暮らしの上、この部屋に客が来る事など無い。だから困る訳も無い」
違うか? と首を僅かに傾け逆に問うてくる先生の、その顔を思わず凝視した。
「なんだ」
「いえ…、あの」
言葉がうまく継げなかった。
ひとつしかない湯飲み。誰の訪問も考えられていない部屋。
それはつまり、この部屋に初めて訪れた客が俺だと―――いうことに、ならないだろうか。
誰も招かれたことのない先生の部屋に今、自分が居る。これは、とんでもなく凄いことのような気がした。
「…緋勇」
「―――はい?」
「その薄笑いを止めろ。気味が悪い」
いつの間にか、顔が緩みきっていたらしい。慌てて頬を擦ったりしてみるけれど、直る気配もない。というか、零れる笑みを抑える術が見付からない。今日はとんでもないこととか凄いことが起こり過ぎている。どうしたんだろう。
「先生ってホントに言い方キツいですよね」
「気味が悪いものは気味が悪い。…止めないなら追い出すぞ」
「判りました、判りましたからそんな、怖い顔しないでくださいよ」
折角遊びに来れたのだ。今更追い出されても困る。頬を手の平へ擦りつけつつ背筋を正し、唇を引き結んで、緩む表情を誤魔化した。えへん、と咳払いをひとつして湯飲みを手にとり、口許へと運ぶ。
俺を連れて帰らないという選択肢もあったのに、先生は俺が来ることを許してくれた。誰ひとり入れなかった部屋へ入れてくれた。それが、嬉しくて仕方なかった。
<つづく>
|