2009.08.24 UP ― 犬+主

消えた涙の行方
〜7〜


 元々、ある種の『力』と呼べるものが俺にはあった。それが10年前、この東京という地へ来たことでかつてない程に強められ、例の『危機』をなんとか回避する原動力になった。そして、この東京が元の姿を取り戻したにも関わらず、『力』は俺の手の中に残された。最終決戦の時程ではないけれど、その状態は今も変わらず続いていた。
 常人とは異なる『力』を持ち合わせているからこそ、今の『仕事』が仕事として成り立っている。それ故にある程度の『自信』といえるものは在るのだけれど、その俺が何らかの術をかけられているというのに全くもって感知できないってことは、―――俺もまだまだ、ってことだ。…悔しいけれど。
 それにしても、俺の記憶を封じたのはいったい誰なんだろう。その目的はいったい何なんだろう。それから、封じられた俺の記憶はいったいどんなモノだろう。
 判らないことが多過ぎて、ついつい難しい貌になってしまう。とりとめなく考えている間に目的地へ到着したらしい。停車したタクシーから降り立ち、顔を上げる。
 10年前にたった1年間、けれどその記憶のあまりの鮮やかさに今も強く心に残っているその1年間を過ごした場所―――真神学園高等学校。その名が刻まれた門柱を眺め、それから、その奥にそびえる校舎を見上げた。俺になにやら術を掛けたらしい誰かの手がかりがあるとすれば、きっとここにしかない。思いながらその門柱に触れると、ぱちんという静電気によく似た感覚が指先から伝わってきた。さっき御門の家で感じたものと同じだと判り、予想が確信に変わる。
「まずは…旧校舎、かな」
 辺りを見回し人影がないことを確かめてから、柵に手をかけて背の高いそれを乗り越える。休日だけに人気の無い校内をぐるりと見渡して、俺は旧校舎の方へと歩き出した。



 旧校舎へ向かう道順は、今も身体に染み付いたままだ。何気なく進んでしまいそうになるそれを、できるだけ意識するようにして歩いていく。特に引っかかる気配も無いままに辿り着いた旧校舎前で、一度立ち止まった。
 そこはかとなく感じる異質さは、10年前足繁く通っていたあの頃よりも幾分か薄れたように感じる。それはきっと、俺自身の力があの頃よりも少し弱くなったからだろう。けれど、中へ一歩足を踏み入れて感じる気温の低下は、あの頃のままだった。濃度を増した異質な気配が周囲からひたひたと押し寄せてくるのもまるで同じだ。
 辺りを満たす気配の中に、ふと、御門の家で感じたそれとよく似た気配を感じた。微かなそれを逃がさぬよう、注意深く辺りを見回す。
 一番強く感じるのは、どこまでも粘りつき縋りついてくる気配だ。けれどそれは地下へと続く階段口から地上へと流れ出てきている。もともとこの旧校舎地下に巣食っている人ならぬモノの気配で、今探しているそれとは異なるものだった。なら、と意識を拡散させながら更に気配を探る。
 広げた意識の網の片隅で再び、おぼろげなその気配を掴み取った。逃がさぬよう慎重に振り返る。その先にあったのは、旧校舎の入り口だった。
 旧校舎の底で蠢く異界がヒトの世界と交わらないよう、その外側に誰かが術を掛けていることは、10年前から知っていた気がする。その術から伝う気配が件の気配と同じだということは、…今探している『誰か』は少なくとも10年前には既にこの場所へ来ている、ということになる。旧校舎に掛けられた術のことを知っている10年前の俺は、その術を掛けた本人のことも知っていたんじゃないか。そんな気がしてならない。
 けれどそれ以上のことは判らず、当然思い出せもせず。ため息をつきながら旧校舎の外へと出た。
 異界とヒトの世界が交わらないよう術を掛けている、ってことはつまり、この地を護っている、ってことだ。そしてその術を施した『誰か』が俺の記憶に封をした、ってことは、…もしかしてこの地を護る上で障害になる何かがあった、ってことにならないだろうか。
 俺がなくした記憶の中に、真神を―――この新宿を害する何かがあった、という可能性を思いついてしまい、暗澹たる思いに駆られた。それは確かに、未だ『器』たる資格を持っているこの身が龍脈へ不用意に近付けば、変に活性化させてしまったりすることもある。けれど、『力』のコントロールは10年前の比ではない程に上達してるという自負があった。そんな可能性は万に一つもない。…筈だ。
「うーん、…次は教室にでも行ってみようか…」
 頭を掻いて歩き出した。どこかの部が活動でもしているのだろうか、遠くから掛け声が聞こえてくる。それを聞きながら、ここから教室へ行くのに一番近い道は、と考えている最中、ふと何かが気になって足を止めた。  まだ日は高い。当然、校舎が作る影もまだ小さい。けれど、日の光が強いだけに作り出される影の色は濃く、日向と日陰をくっきりと塗り分けている。足を止めた俺は、気がつくとその新校舎の影に目を吸い寄せられていた。
 そこに昔、誰かが居た気がする。その地に縛された何か、ではなく、生きている何か。…人、だった気がする。
 どんな人だったっけ、と想いを廻らせようとすると、不意にずきりと頭が痛くなった。思わず眉を顰めこめかみに指を当てて、顔を伏せる。頭の天辺を突き抜けていくようなその痛みは、目を閉じ顔を伏せて耐えていると、数秒も続かずすぐに和らいでいった。は、と息をついて目を開く。地面に落ちた自分の影を見詰めながら、もう一度、そこに居た人のことを脳裏へ思い浮かべようとしてみた。案の定、先刻と同じような痛みに襲われる。
 想い出すことを邪魔されている。…自分の中で、自分とは違う意志が働いている。そんな気がした。
「………気持ち悪い」
 けれど、こうまで酷い痛みを抱えたまま何かをするのは無理だ。仕方なく考えることを止め、少し痛みの残るこめかみを揉みながら薄く目を開く。
「取り敢えず、教室―――だ」
 ひとつ息をつき、教室を目指して俺は足早に歩き出した。





 それから俺は、見回りで残っている先生や部活しに来ている在校生に会ってしまわないよう気をつけながら、教室、保健室、職員室と訪ね歩き、最後に屋上へと辿り着いた。
 屋上へと続く扉には鍵が掛かっていた。『仕事』柄―――と言ったら変な誤解を与えてしまいそうだから、決して泥棒じゃあないことを名言しておく―――開錠に関してはちょっとしたエキスパートだ。これくらいの鍵開けられないでどうする、という自負と共に懐からツールを取り出して片膝をつき、鍵穴に顔を近付けてそっと差し込む。
 手許を微妙に傾けながら作業することほんの数秒。ガチリという開錠の音に表情を緩め、扉を開けようとノブへと手を伸ばして触れた瞬間、ぱちん、と軽い静電気のようなものが手許で弾けた。思わず手を引っ込めた時、頭の中で誰がの台詞が響いた。

『鍵、掛けなくていいんですか』
『後でやるから掛けに来い』

 不意に襲われる目眩に壁へ手を伸ばして身体を支える。…今、脳裏に浮かんだ台詞は一体なんだ。身に覚えは無いのに、問いかけている方は自分だと判る。なら、問いかけている相手は誰だ。
 考えようとすると、つきん、と頭痛がした。痛みは、旧校舎から出てきた時や教室へ行った時よりは軽くなっていた。
 軽く頭を振って息を吐き、さっき開錠した扉を開けて屋上へと出る。眩しさに手を翳して、青い空を見上げた。



 今まで訊ね歩いてきた場所全てに共通しているのは、『既視感』だった。
 教室の前の廊下で、全て見透かしているような雰囲気を持つ不思議な誰かに出会ったことがあった。保健室では、不可思議な『力』に倒れた仲間の具合を誰かが診てくれたことがあった。そして職員室で、都内のそこかしこで起きていた不可思議な事件に首を突っ込んでいることを咎められたことがあった。
 全て身に覚えのないコトだけれど、そういうことがあったと何故か確信できた。
 そして、それぞれの場所で出会った人のことを考えようとすると、必ず頭痛に襲われた。けれどその痛みは、場所をひとつ経る度に弱くなっていき、今では鈍い痛みに少し顔を歪める程度、というところまできていた。
 もしかすると、何らかの手順に従って形跡を辿ることができれば封が解ける、という仕掛けが施されているのかもしれない。『誰か』のコトを考えさせないような意図を感じる頭痛が次第に弱くなってきているのは、ある程度その『手順』をなぞれたから。逆に未だ全てを想い出せていないのは、『誰か』が定めた手順をどこかで間違えているから。そう考えることもできるのかもしれない。
 でもそれはあくまでも『可能性』の話であって、そもそもそんな話ですらない、という可能性もある。とはいえ、酷い頭痛に悩まされず相手の正体について思索することができることは、ひとまず歓迎すべき事だった。





 俺の記憶の一部を封じた『誰か』は、旧校舎の地下に蠢く脅威をも同じように封じ込めているらしい。そしてその『誰か』は、少なくとも10年前には既にこの真神学園の関係者となっていて、昔も今も変わらずにこの真神を護っている。身分は、用務員か事務員か、それとも教員か―――。いずれにしても学校運営側の関係者であることに間違いないだろう。
 卒業以来、俺は真神に帰ってきていない。その俺があちこちで既視感を感じるということは、10年前の俺は当時既にその『誰か』と知り合っていた可能性が高い、ということになる。
 常に冷静で怖い物なしと仲間うちの誰からも言われていた俺が威圧感を感じる人。不可思議な力によって仲間が受けた傷を、普通に診ることができる人。そして、昔も今も真神を護ることのできる『力』を持っている人。―――そんな人が果たして居ただろうか。
「………痛…いな」
 断片的に浮かび上がってきた情報を整理して推理していく最中、不意に頭の奥の方につきんと痛みが走る。これ以上考えるな、という警告のようにも思える痛みに、眉根を顰めてしまう。
 これ以上は進展が望めそうにない。新たに動くとしたら、どうすればいいだろう。
 校内をしらみつぶしに探してみようか。けれど、封を解くための『手順』がもしあったとすれば、たったひとつでも手順を間違えれば決して封は解けないだろう。となればただの徒労に終わる。
 なら、いっそのこと姿を現さざるを得ない状況を作り出してみる、とか。
「―――それで、いってみるか」
 護り人であるならいけるかもしれない。随分手荒だけれど、それが一番手っ取り早い気がした。
 携帯を取り出し、メモリからある番号を探し出して、通話ボタンを押す。待つこと数コール。
「あ、もしもし。緋勇だけど」
 名を告げ、探している『誰か』が『姿を現さざるを得ない状況』を作り出すために必要なことをお願いする。携帯の向こう側にいる彼はそれを聞いて、少し思案しているようだった。確かに即答できる内容じゃないだろう。場合によっては対処が酷く面倒になることだ。
「―――ん、うん、それはもちろん。無茶はしないよ。できるだけ迷惑かけないようにする。………うん、っ、うん! ありがとう!」
 やっぱり、無茶はしないようにと釘を刺されてしまった。けど、お願い自体はOKして貰えた。持つべきものは友達だ、と安堵に胸を撫で下ろす。これで、何かあったときの対策は取れた。後は、実行するだけだ。
 靴を脱いで脇へ置き、結跏趺坐でコンクリートの上に座って、つと目を閉じた。静かに大きく息を吸い、肺の中の空気を全て抜くつもりでゆっくりと深く息を吐く。
「…よし」
 腹の底へ力を篭め、『状況』を作る態勢に入る。放出する気の大きさを慎重に測りながら俺は、気を練る作業へと没頭していった。




<つづく>

モドル ススム

カエル