日が暮れ、空が黒一色に塗り潰される頃。屋上の扉が音を立てて開いた。緋勇の居るところからでは、屋上へと上がってきたのが誰か見ることはできない。双眸を閉じたまま、意識だけをその『誰か』へと集中させる。
「…こんな時間にこんなところで何をしている」
低い声が聞こえた。誰なのかは問わず、何をしているかを問う声。その声音からすると、屋上へと上がってきたのは恐らく男性だ。年の頃は青年と中年の間くらいだろうか。
男がまとう気配にどこか違和感を感じるものの、耳に届いた声からは怒気を感じなかった。どちらかといえば、…そう、『面倒臭い』という感情が近い。その様子に『相変わらずだな』と内心苦笑して、そのすぐ後、そう想った自分に自分で驚いた。
さっき聞こえてきた低い声に聞き覚えはない。知っているともなんとも感じない相手から確かに感じた既視感に、疑問が頭を擡げた。自分が今探しているのは、もしかしてこの男なんじゃないだろうか。
屋上へ来て、そこに人が居るかどうかを確認もせず『何をしているか』を問いかける。それはつまり、男は屋上へ来る前からここに誰かが居ることを知っていた、ってことになる。そして、誰にも見つからずに屋上へと来た自分がここにいることを知る術は、極々普通のヒトであるなら、無いはずだった。
探している相手が普通のヒトではなく、この真神の『護り人』だからこそ、やってみようと思ったこと。―――緋勇が屋上でしていたのは、ある意味この上なく危ないコトだった。
座した校舎屋上を中心に、旧校舎をすっぽりと覆う範囲まで気を広げる。その内部で、潤沢な気をさながらよく煮たシチューのように練り上げる。力の弱いモノには近寄ることのできない空間。けれど力のあるモノにとっては垂涎の的を中に抱える大きな餌場。―――それを、緋勇は意図的に作り出していた。
雑魚ならばいくら来ても処理できる自信があった。多少強い力を持つモノでも1匹や2匹なら己の方へと誘引して処理できると考えていた。けれど、強い力を持つモノを同時に5匹も6匹も引き寄せてしまったなら。己の方へと誘因するのに失敗して旧校舎の方へと行ってしまったら。きっと、ひとりでは対処しきれない。
そんなどうしようもない事態になってしまったなら、まず間違いなくこの真神学園にも大きな影響が出るだろう。旧校舎の封が綻びる、あるいは一部が壊れる、その可能性も否定できない。
そんな『危険なこと』をしようとしていることを『護り人』が知ったなら。できる限り人前には現れないようにしていたとしても、その『元凶』となっている緋勇を止めに姿を現さざるをえないだろう。それを狙っての『暴挙』だった。
その最中、日が暮れてようやく姿を現したこの男は一体何者なのか。それを判断するには情報が足りなすぎた。もう少し様子を見てみるべきだろう、と緋勇は無反応を決め込み、掛けられた言葉にも反応せずただただ座していた。
男は、緋勇が反応するのを待っているようだった。扉の前から少しも動かず、静かに龍麻の気配を窺っているのが判った。けれどあまりの反応のなさに、無視されたのだと気付いたのだろう。ゆらりと男の気配が揺らいだ。
「応えないつもりか。…いいだろう」
ぼそりと男が呟いた。その台詞の意味を考えるより先に、今の今まで確かに捉えていたはずの男の気配を、緋勇は見失っていた。
どこかへ場所を移したような感じはしなかった。文字通り『掻き消えた』ことに驚いて思わず目を開くと、背後に突然何者かの気配を感じた。身近から放たれる恐ろしく強い気とその威圧感に、身動きが取れなくなる。冷や汗が背中を滑り落ちていくのだけが判った。
「こんなところで餌を撒くな。…その気を収めろ」
口調は、屋上へ姿を現して直ぐ、気怠げに喋っていたときと同じだった。なのに、気配だけが、さっきとはまるで別人かと思ってしまうほどその質を違えていた。そして、移動したことを悟らせないほどの速さで動き、背後を取られたという事実。決定打は、緋勇の思い付いた『暴挙』を止めに来たと覚しき台詞だった。
真神の『護り人』であり、緋勇の記憶を封じた張本人だろう男が今、背後に立っている。そう思うと、緋勇は居ても立っても居られなかった。訊きたいことがある。質したいことがある。
「あの」
「その気を収めろ、と言っている」
意図を読んだのか、口を開き掛けたところで言葉を奪うようにしてもう一度、さっきと同じ言葉を男は繰り返した。
淡々とした口調と、今も背中へ重くのし掛かる威圧感。その余りのギャップに口を噤んだ。場合によっては実力行使も辞さない、という男の確固たる意志が透けて見えるような気がした。
「…判りました。―――止めますから、少し話を聞かせてくれませんか」
背後に立つ男にとっては何の意味もない条件だけれど、こちら側からの意志表示として、緋勇は言葉に表した。今度は遮られなかったけれど、その代わり返答もなかった。
色よい返事を貰えるまで男の要求を飲まない、という選択肢もあるにはあった。とはいえ、実際問題としてこれ以上気を放出し続けると余り良くない事態を招きかねないくらいに、この『暴挙』を始めてからの時間が大分経ってしまっていた。
ここで意地をはったとしても、男がそれに乗ってくれる保証はない。むしろ関係なしに本気を出して阻止しようとしてくる可能性の方が高い。その相手をしながら現状を維持するのは難しいように思えた。余裕が無くなれば怪我をさせてしまうかもしれない。…いや、もしかするとそんな考えはただの思い上がりで、底の知れない気配が見かけ倒しでないなら、手傷を負うのはむしろこちら側だろう。
そして、気の放出が過度になり『危険なこと』が起きてしまったなら。そんな時のための『保険』として念のため待機して貰っている『彼ら』にひと働きして貰わなければならなくなる。そんな事態は、できるだけ避けたい。
もともと、真相に辿り着けそうで辿り着けないっていうこの膠着状態を何とかするために企てた策だ。どうにかなる兆しが見えないうちはぎりぎりのところまで粘ろうと思っていたけれど、オレの記憶に関して何か事情を知っていそうな相手がわざわざ向こうから姿を現してくれたんだ。ここは一度要求を飲んでおくべきかもしれない。
「―――話を、…聞かせてくださいね」
もう一度、多分意味が無いだろうけれど念を押してから、気を収めるべく目を閉じた。
ひとつ大きく息を吸って、広げている気の範囲を少し広げる。そして周囲に集まって来ていた有象無象を一度に祓ってから、今度は息をゆっくり吐きながら、放出していた気を少しずつ収めていく。
長い間『やらかしていた』割りには妙なモノが引っかからず、程なくしていつも通りの状態へと戻すことができた。背後から押し寄せていたこれ見よがしな威圧感が僅かに緩んだことに、ほっと息をつく。
これで少しくらいは話をさせて貰えるだろうか。いや、どんなことをしてでも話をさせて貰わなければ。そんなことを考えながら身体を起こそうとした刹那、何か厭な感じがして、神経を尖らせた。殺気ではない、もっと別の何か。それが背後から向かってくることに気付き、とっさに片膝をついて態勢を取った。
「!」
振り向きざま眼前へと掲げた腕が、男に掴まれていた。視線を上げると、見るからに不機嫌そうな表情を男は浮かべていた。微かに聞こえた舌打ちから、きっと別の物を掴もうとしていたんだろう、と思う。が―――ならば何を、というなら、位置関係からいって龍麻の頭しかない。そう思い付いた脳裏に、何故、という疑問が過ぎる。
緋勇の戸惑いを余所に、男は緋勇の腕を掴む手に力を籠めた。はっとして意識を向けた瞬間、掴まれていた腕を強く引かれ、硬いコンクリートの上へと引き倒されていた。とっさに受け身を取る。頭は打たずに済んだけれど、肩と背中を少し打ってしまい、痛みに一瞬意識が向いてしまった。
その隙を男は逃さなかった。空いていたもう片方の手を取られ、頭上でひとつにまとめられて、両腕の自由を奪われてしまう。更に両膝の上へ男の足が乗せられてしまい、少しも身動きが取れなくなってしまった。
訳が判らない。とにかくこの現状からどうにかして抜け出さなくては。けれど一体どうしたら、と思考を廻らせようとして、不意に何かが頭へと触れたことに気付いた。
頭に触れていたのは、男の手、だった。手の平に視界を奪われたまま、断片的に連想する。頭―――脳―――そして、記憶。
「―――ちょ…っと、待て! 止め―――ッ」
このままだと記憶をまた封じられてしまう。そんな気がした。
「もう10年だ。………忘れろ」
低い声で囁くように告げられた言葉が、予感を確信に変える。そして押し寄せる、焦燥。新宿の雑踏で我に返ったときに、足許が抜け落ちているような心許なさを。御門と村雨に封を弱めて貰ったときには喪失感を。オレは確かに感じていた。
男が何事か唱えている言葉がどこか遠く聞こえる。心は急くけれど、何をしたらいいのか判らない。この事態から抜け出せる方法が見つからない。目の前には男の大きな手の平が、全てを覆い隠すように在った。
その手の平から伝わってくる熱と、身近に在る男の匂いと、低く紡がれる声。情けなく取り乱した頭の片隅でそれらを一度に認識した瞬間、脳裏に声が響いた。
『―――さよならだ、緋勇』
忘れようもない、忘れられない声。あの人との久しぶりの再会に舞い上がり、久しぶりの酒にかなり酔って、酔い潰れる寸前に聞こえた声。どうして忘れていたんだろう。
緋勇は無我夢中で叫んでいた。
「せん…せい………ッ、犬神、先生っっ!」
宵の口を吹き抜ける風に声が融ける。静寂が戻ってからほんの数秒か、数分か。緋勇の目許から頭へと被せられていた手の平がゆっくりと退いていった。
緋勇の視界に、苦虫を噛み潰したような、よく知っている顔が飛び込んでくる。その目許、光る金色の瞳が、『力』を使おうとしたことを物語っていた。
「…せ……ん、せ」
少し掠れた声で呼ぶと、押さえ付けていた両手から手を外してくれた。膝へ乗り上げていた足を退けるとすぐ隣に座り込んで、男は溜息を深々と零す。
「術を気なんぞで跳ね返されたのは、…随分と久しぶりだ」
「…どうして」
想定外の事態に面白くなさそうな貌で頭を掻く男―――犬神先生をじっと見詰め、思わず呟いていた。どうして先生が、オレの記憶を。しかも、先生に関する記憶だけ封じる、なんて。
「お前こそ、どうして俺にこだわる」
遅れて身体を起こしたオレへ、先生が逆に訊ねてきた。気が殺がれてしまったんだろう、胸ポケットから煙草の箱を取り出して一本咥え、ライターで火を点ける。紫煙をひとつ吐き、斜めに視線を向けられた。
「お前には両手では足りないくらい仲間が居るだろう。…どうして、性懲りもなく俺の所へばかり来る」
少し前のオレなら、その質問に対して満足のいく答えを返すことは出来なかっただろう。失った記憶が呼び起こした不安が、思い出したばかりの記憶から、今まで気付いていなかった気持ちを引き摺り出していた。
オレは、先生のことが好き、なんだ。
だから、隣に居るに足る存在だと認めて欲しくて、10年も飽きずに修行した。忘れたことはなかった。あんまり先生の話ばかりするものだから、京一や劉に呆れられたくらいだ。
両手を握り締め少し逡巡した後、思い切って顔を上げ、口を開く。
「オレ、…先生と一緒に居たいんです。一緒に歩いて、いきたい」
「お前と俺では生きる時間が違う。…お前が自分で言っただろう?『十年前と変わっていない』と」
そういうことだ、と先生は呟くと、赤々と光る煙草の火へ視線を落としたまま息を吸い、再び煙を吐き出した。その台詞でようやく、あの時感じた胸騒ぎの意味を知った。そうとは知らず、みずから溝を深めていた己の迂闊さを呪う。
「それは………でも…っ」
更に言い募ろうとするオレを、先生は眇めた目で見た。
「勝手に居ついたと思ったらいつの間にか勝手に居なくなる。…お前の都合に俺を巻き込むな」
至極もっともな言葉に、何も言えなくなった。どう足掻いても、オレは先生を残して居なくなることになる。オレはそれでいいかもしれない。けれど、残された先生は、どうなる。
何か言い返したいけれど言い返せる言葉が無くて、ただじっと見詰めるしかないオレの目の前で、先生は煙草を咥えたまま頭を掻いて言った。
「さっきお前は『一緒に歩いていきたい』と言ったが、…不可能だといい加減理解しろ」
その言葉はついさっき初めて気付いて、そして言ったコトだ。それなのに『いい加減理解しろ』と言われるのはなんだか違う気がした。でもそれよりも先に『不可能』というところにはなんだか無性に言い返したくなって、思わず声を上げていた。
「不可能じゃない。―――少し居なくなるだけで、オレはちゃんと…先生のトコへ戻ってきます」
なんとも都合のいい解釈だと自分でも思う。けれど何故か、破綻した論理だとは思わなかった。
ふと先生を見ると、オレの発した言葉になんだか驚いたような、呆気に取られたような、なんとも言えない貌をしていた。
「…お前も、そう―――言うのか」
感慨深げな様子で先生が零した言葉に、以前同じようなコトを言った人が居たのだろうか、と思う。知らない誰かと同じ思考回路だというのがなんだか少し厭だけれど、本当にそう思うのだから仕方ない。
「…はい」
マジメな貌でこくりと頷くと、煙草を咥えたまま先生が、唇の端を微かにつり上げて笑った。滅多に見られない光景に思わず目を見張る。
「―――帰るぞ。腹が減った」
おもむろに立ち上がると、先生はそう言ってひらりと屋上の扉の前へと飛び降りた。一体どういう話の流れなんだと慌てながらオレも立ち上がり、同じように飛び降りて追いかける。
「…あの………先生?」
「なんだ」
「オレ、…その」
一緒に居ていいんですか、と。言葉には出せず、扉を開けたままこちらを振り返る先生の顔を見上げた。視線を絡めた後、ふいと外されて少し焦る。ポケットから携帯灰皿を取り出して吸い殻を片付けながら、先生が口を開いた。
「さっき言った言葉を証明するつもりがあるなら、来るといい」
「―――っ、はいッ!」
思わぬ言葉に再び目を見張り、大きく頷き返していた。扉を潜り校舎内へと入っていく後ろ姿を追う。
「俺が帰り支度する間に鍵を閉めておけ。開けっ放しは許さん」
「やっぱり…そうなりますよね」
「あたりまえだ」
昨日と同じようなやり取りが、なんだか嬉しくて仕方がない。はーい、と返事をして、隣に並び一緒に階段を降りていく。
後で鍵を閉めにくるときにでも、『ちゃんと記憶を取り戻せた』って御門に連絡をいれよう。待機して貰ってたみんなにも今度お礼しなきゃいけない。何がいいかな。そんなことを考えながら先生の後ろ姿を眺めていて、ふと思った。先生はもしかして、勝手に居なくならないのなら、…戻ってくると約束できるなら、オレと一緒に居てもいいと思っていてくれたんだろうか、と。
そうだといいな、と少し祈るような心持ちで視線を臥せる。さっき話した時、その言葉の端々から感じた先生の過去に想いを馳せた。オレの知らないたくさんの先生が、今の先生を作っている。そして今の先生がオレと居ることで、これからの先生が作られていく。その行方を隣で一緒に、いつまでも追いかけていきたい。心からそう思った。
取り敢えず、今晩また飲み明かそう。夕べはみっともなく酔い潰れたから、リベンジだ。
「せんせー。夕飯何喰いたいですか?」
「肉」
「―――なんか微妙に答えになってないですけど…」
「そこから先はお前が考えろ」
俺に献立を聞くな、と溜息混じりに呟く先生の言葉に、オレは思わず笑っていた。
<了>
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