2009.05.24 UP

はじめてのキモチ
〜2〜


「それじゃ、ちょっと、待って、て」
「ひとりで大丈夫か? オレも手伝おうか」
「だいじょぶ。―――すぐ、戻るっ」
 2人分の食器を載せたトレイを持ち、三橋が部屋を出ていった。とんとんとん、と階段を下りていく音に、オレはなんとなく耳を澄ませた。
 三橋の家に着いてから、まず先に三橋を風呂へ行かせ、その後でオレも風呂に入らせて貰った。それから一緒にメシの準備をして、たくさん作り置いてあったカレーを食べさせて貰って、今、三橋が食器を片付けにいっている。
 片付け手伝うって言ったんだけど、食べ終えたら食器はそのまま流しへ置いとくように親から言われたとかなんかで、手伝いを断られてしまった。持って降りるのもホントはあんまりやらせたくない―――バランスでも崩して間違って転げ落ちたりしたら、と思うと気が気じゃない―――ンだけど、あんまり過保護なのも良くないと最近は思う。自分ちなら色々と慣れてるだろうし、そこまで気にする必要もないだろう、って思って、今回は任せた。…これが合宿所とか他の誰かンちとかなら、絶対にやらせねぇな。多分。
「しっかし、静かだな…」
 床の上に座ったまま、窓の外を見上げる。幹線道路から離れているせいか、虫の声がはっきりと聞こえるほど静かだ。目を閉じ、後ろへ身体をごろりと倒して、両手両足を投げ出す。大きく息を吸うと、当たり前だけど、自分の部屋とは違う匂いがした。
 三橋んちには何度か来たことがある。一番最初に来たきっかけが試験勉強だったから、その後みんなで勉強するときは大抵三橋んちで、ってことになってる。それから、学校から近いってことで、何人かで昼飯食いに来たり。試合後にぶっ倒れた三橋の様子を見に何人かで来たこともあったっけ。
 ―――って、そういや、1人で三橋んち来たの、今日が初めてじゃないか?
 閉じていた目を思わず見開いて、記憶をつぶさに振り返る。…間違いない、今日が初めてだ。しかも、親居ないってことは今この家に居るのはオレと三橋2人だけ、ってことだ。そう確認したところで、階段を上ってくる足音が聞こえてきた。慌てて身体を起こし振り返るのとほぼ同時に扉が開いて、三橋がひょこりと顔を覗かせた。
「片付け、終わったっ」
「―――お、お。ありがとうな」
「うん、―――それで、麦茶、持ってきた、んだ」
 そう言って三橋がへらりと笑う。その無防備な笑顔を見て、急に心拍数が上がった。いつもは見せないような笑顔をこのタイミングで、とか、不意打ち過ぎる。計算してやってるならどんだけ策士なんだっつー話で。
 さんきゅ、と返しながら、思わず居住まいを正すように座り直してしまう。オレがそんなこと考えてるなんて知る由もない三橋は、自分とオレの前へ麦茶のグラスを置くと、ぺたりと座りこんでオレの方を見た。
「カレー、おいしかった、ね」
「…おお。肉も野菜もでかくてたくさんあって、うまかったな」
 頷いてそう返すと、三橋は嬉しそうにまた笑って幾度も大きく頷いた。その満面の笑みにはなんの含みも裏も見えなくて、オレだけがぐるぐると意識してるのがバカみたいに思えた。
 胡座をかいた足首に両手を置いて一呼吸置き、三橋の顔を真っ直ぐ見る。
「―――それじゃ、打ち合わせの続き、やっか」
「うん! …え、と…貰った、紙…」
 三橋は大きく頷くとカバンを引き摺り寄せ、何かを探し始めた。多分ちょい前に渡した、相手チームの打者ひとりひとりのクセを書いてやった紙だろう。
 その横顔を見ながら、オレは気付かれないように大きく息をついた。グラスを手に取り、気持ちを落ち着かせるようにひとくち飲む。1人だろうが誰かと一緒だろうが、そいで家に親が居ようが居まいが、どーってことないし、んなコトいちいち意識したりとかありえない。三橋だってそう思ってる。だからこそオレを呼んだんだろう。
 それよりも何よりも、この状況をオレだけが意識して心拍数上げてるとか、そんなの格好悪過ぎる。
「あった! ―――んと、…ここ、だ。阿部くん、ここ…」
 ようやく紙を見つけた三橋が、それをテーブルの上へと広げ始めた。膝をつき軽く腰を浮かせた格好で紙面を指差し、マジメな貌で質問しようとする姿に、切り替えなきゃダメだ、と心の中で自分を叱咤する。
「…どこ、判らないんだ」
「えと、…ここの、打者の―――」
 軽く身を乗り出すようにして一度三橋の顔を見遣り、先を促した。三橋は頷くと改めて紙面へ目を向けた。少し言葉に詰まりながら、けどいつもよりだいぶ滑らかに、疑問に思ったところを話し始める。
「ああ、そこはさ、相手が左打ちで身体デカいだろ、だから球は―――」
「うん、………っ! そ、そっか…だから、こうで」
 紙に書いた内容をそのまま丸暗記するよりは、どうしてそうなるのか、ってことを理解して頭に入れた方が判りやすいし、とっさの時でもぱっと浮かんでくる。ただただ丸暗記しようとしてショートしてた最初の頃に比べたら、コイツもやっぱ色々考えてるんだなと思う。いい傾向だと思うし、だからこそより一層、手を尽くしてやりたいと思う。
 うまく説明できなかったり、ちゃんと説明してる積もりなのに判って貰えないコトがあっても逆切れしたりしない、てのが自分の課題だなとか内心思いながらも、途切れそうになる三橋の言葉を辛抱強く待ち、向けられる質問・疑問をひとつひとつ解消していった。
「―――ぉ、う、判った! ありがとう、阿部、くんっ」
 よく判らなかったところが全部腑に落ちたんだろう、すっきりとした表情で三橋はそう言うと、またさっきと同じ貌で笑った。こうやって、オレの説明を聞いて理解する度に表情を明るくする三橋を見るのは、正直嬉しい。頼られるのも悪い気はしない。ちゃんと考えてて、それで判らないとこを頼ってくるから、教える方としても気合いが入る。
「おお、後は試合までちゃんと忘れないでおけよ」
「う、んっ!」
 満面の笑みでもう一度頷いた三橋が、ほうっと安堵の溜息をついて腰を下ろそうとした。その時、脇へ避けていたグラスに手があたってしまい、麦茶がまだ大分入っているそれが、ぐらり、と揺れるのが見えた。
「!」
 このままだと三橋の方へグラスが傾いて落ちる。そう思ってとっさに身体が反応した。
 胡座かいてた足を解き片膝を床について腰を浮かせ、片手をテーブルへついて大きく乗り出す格好になる身体を支えて、もう片方の手をグラスへと伸ばし、零れる寸前で受け止めた。なんだこの反射神経、って感じの早業に我ながら感心する。
 グラスが倒れて中身が身体にかかったって、どうせ麦茶だし量もそんなにないしちょっと冷たいくらいだ。そんなんでケガとか風邪引いたりとかあり得ない。あり得ないんだろうけど、零れる前に受け止めることができて、はーっ、と大きな安堵の溜息が零れた。
「三橋っ、お前、もーちょっと気をつけろよ、な………っ?」
 そこではたと気付いた。三橋の顔との距離が、ものすごく近い。
 とっさのことですぐには気付かなかった。けど、三橋の方へ倒れそうになってるグラスを止めようとして身を乗り出したんだ、そりゃあ近くもなるだろう。三橋は三橋で、倒れそうになったグラスを受け止めるような体勢にはなってるけど、オレの急な動きには反応できなかったようで、きょとんとした貌でこっちを見上げていた。
 そんな状況で、ふと要らないコトを思い出しちまった。今、オレと三橋ふたりっきりだ、ってコト。この部屋、ってだけじゃなくて、この家ン中全部考えても、ふたりっきり、なんだ。
 とたんに心拍数があがっていく自分がホント恨めしい。にしても三橋の顔がすげー近い。近過ぎて、なんだかクラクラしてくる。
『オレ、三橋のコトが好きだ。投手としてだけじゃなくて、…その、トクベツなイミで、―――好きだ』
『―――ホント、に?』
『当たり前、だろ?! こんなコト、冗談で言えっかよ…!』
『…ぉ、オレ、も、―――阿部君の、コト、…好き、だ…っ』
 少し前に交わした台詞が脳裏によみがえる。あのときの言葉を、今、どうしてか確かめてみたい、そんな衝動に駆られた。
「―――みは、し」
 なんだかすげー緊張してる。喉がカラカラで声が少しおかしい。片手で受け止めてたグラスを少し脇へ避けるようにして置き直し、その手で今度は身体を支えるようにテーブルへついて、さっきまで身体を支えていた手を、そっと伸ばした。
「あ、べ…くん…?」
 頬へ触れても、三橋は逃げなかった。なんか雰囲気に飲まれてるようにも見えたけど、でも、そんなことに構ってる余裕はなかった。心臓がばくばく言っててうるさい。…貌、赤くなってる気がする。
「三橋、…」
 男相手になんでこんなこと考えてんのか、こんなことしようとしてんのか、自分で自分が判らない。けどこういう状況でこんなことになってんのは現実で、そう思ったのも間違いなく自分だ。
「―――ぁ、べ、っく」
 顔を傾けて、ぐ、と近付け、目を閉じて、唇に触れた。三橋がびくりと震えたのが、手の平から伝わってくる。けど、三橋はやっぱり逃げなかった。
 男でも唇は柔らかいんだな、なんて妙なコト思いながら、一度顔を上げて、さっきよりも近くから三橋の顔を見た。ぎゅ、と閉じられていた三橋の目が恐る恐るといった様子で開き、視線がかち合う。
「―――!」
 そしてようやく今の状況を理解したのか、三橋の顔がみるみる赤くなっていった。容量オーバーでショート寸前、みたいな表情に少し笑いを誘われて、なんだか少し落ち着いた。判ったところでもう一度、と目を伏せて顔を寄せた。
 ビデオとか本とか、そーゆー類のモノを見たことないワケじゃないけど、自分で実際にやるとなるとさすがに触れるだけが精一杯だった。だって、最初だぞ、最初。そんな器用なヤツじゃねぇし、オレ。
 そうして顔を上げ、間近からもう一度三橋の顔を見た。顔が真っ赤で容量オーバー寸前、ってトコはさっきと同じだったけど、それに加えて今度はどこかぼうっとしたような、なんとも言えない貌をしていて、そんな様子にオレの心拍数がまた跳ね上がった。
 ヤバい、マジで暴走しそうだ。そんなコトを頭の片隅で考えながら、もう一度キスしようとした。
「………ぇ〜〜〜ん〜」
「?!」
 不意に聞こえてきた鳴き声―――いや、誰かの『声』に、びくりと我に返る。
「―――ぅ、…っあ、!」
 声が聞こえてきた方をオレが振り返るのとほぼ同時に、三橋もばっと同じ方向を向いた。
「…れぇ〜〜〜〜〜ん〜〜」
「お、かあさん、だっ」
 三橋はそう言うと、半端に身体を起こしていたオレを見上げてきた。親が帰ってきた、と判って、なんでかぎくりと身体を引いてしまう。
「阿部、くんが来る、の、言ってなかった…から、言ってくるっ」
「―――お、ぉ」
 ぎこちなく頷くと、三橋は顔を少し赤くしたままわたわたと立ち上がり、転がるようにして階下へと駆けていった。
 中途半端に開いたままの扉を呆然と見遣り、下で三橋が親と何か話している声を聞きながら、オレは激しく脱力した。なんかオレ、今スゲーコトしなかったか? いや、まだキス止まりだし、暴走しなかったから、別にすごくはねぇか。…てゆーかいくらなんでも衝動的にあんなコトするとは、キスだけだって言っても、なんか自分で自分が信じらんねェ。
「テンパり過ぎだろー…カッコワリぃ」
 まだ火照ってるように感じる目許を手の平で覆って、がくりと床に手をついた。



 けど。と、目許を覆っていた手を外して、見る。触れても、三橋は逃げなかった。2回目の後なんか、思い返してみてもちょっとヤバい貌してた。もっと触りたくなる、っつーか、煽られる、っつーか。あのまま親が帰って来なかったらオレ、暴走してたような気がする。かなり高確率で。
 はああああ、と、大きく息を吐いた。やっぱオレ、三橋のコトが、トクベツなイミで、かなり好きらしい。
 三橋の方はどこまで思ってンのかまだちょっと判らない。けど、拒絶されてないってのは判ったから、今はまだそれでいいや。
 取り敢えず、勝手にあがりこんじまってるし、一応挨拶しに行っとこう。そう思って立ち上がる。
 赤い貌どーにかしねぇと、と思いながら、少し温くなった麦茶をひとくち飲む。そうして、三橋の声が聞こえる方へと向かった。





<了>

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