2010.05.07 UP

君の隣で
〜3〜


◇   ◇   ◇



「ごちそうさんしたっ」
 巽はいつものように胸の前で両手の平を合わせると、神妙な面持ちでそう唱えた。持ってきた弁当箱の中身はきれいに平らげられ、すぐ隣には箸がきちんと揃えて置かれている。小さいころからしっかり躾けられてきているんだろう。
 表向きはなんだかんだ言いながらも、巽は母親の教えをしっかり守っている。そして、警察官に何を言われても、巽の母親は息子を信じて少しも揺らがなかった。記憶の中にある優しいながらも毅然とした横顔が、目の前の大柄な後輩の横顔と重なる。自分と、自分以外の何かを繋ぐ絆が、巽にも確かに有る。そう思うと、なんだか胸の中が暖かくなるような気がした。
「どういたしまして」
「や、ホントにマジうまかったっス。いつもながら先輩凄ぇや。―――あ、茶ぁ貰っていーすか?」
 声をかけるとさっきまでの神妙な顔から一転、巽が満面の笑みを浮かべて賛辞を贈ってきた。思わず顔が緩んでしまう。それを隠すように、携帯マグへと伸びる巽の腕へふと視線を落として、鷹揚に頷いた。
「俺の分残しとけよ」
「うっス」
 携帯マグの蓋を開ける巽の横顔を、僅かに上げた視界の隅に収める。
「そいやさっきの野菜炒め、あれも先輩が作ったんスよね」
「そうだけど、…あれ、まずかった?」
「その逆で。冷えてんのにちゃんと歯応えあって、旨かった。…弁当に入れると大抵水っぽくなっちまうのに、…なんか秘訣とかあるんスか?」
 旨かったと聞いて、ひとまず胸を撫で下ろした。そして、とんでもない秘密をどうにかして聞き出そうとでもしているかのような真剣そのものの貌で俺の返事を待つ姿に、思わず小さく笑ってしまった。途端に眉を顰めるのにも、想定通り過ぎて更に笑みを誘われた。
「…んだよ、なに笑ってんスか」
「違う、そういうんじゃないよ。ごめん」
 違うから、と言い聞かせるようにもう一度言葉を重ねた。更に、首を左右に振り宥めるように肩を叩く。空の弁当箱を脇へと退けてすぐ隣に座りなおし、向けられた訝しげな貌を笑みと共に見上げた。
「簡単なんだよ。あれな、―――」
 ちゃんと説明しようという気持ちが伝わったのだろう。訝しげな表情を消し、一言一句聞き漏らすまいと巽は真剣な貌で身を乗り出してきた。その横顔を不自然でない程度に眺めながら、高原は思う。
 親と子供の間に絆があるのは、ある意味当然で、とても自然なことだ。中にはちょっとした釦の掛け違いで擦れ違っている親子も居る。けれど、この世に生を受けてから今まで積み重ねてきた時間は、そう容易く超えられるものでもない。
 それなら、出会ってまだ数ヶ月しか経っていない俺と巽の間には、何があるんだろう。
「―――って訳だ。今度、試しにやってみるといいよ」
「なる程、…確かにそっスね。おし、今度やってみよう」
 感心したように幾度も頷く姿から視線を外して、携帯マグを口許へ運ぶ。冷たい麦茶が気持ちいい。少し暑くなってきただろうか。そういえば、さっきまで吹いていた風が大分弱くなってきていた。そのせいで体感温度が上がってきているらしい。
「日陰行こう。ここだとちょっと暑い」
「うーす」
 案外平坦な屋上の、数少ない日陰へと二人揃って移動する。並んで腰を下ろすと、気持ちのいい風が吹いてきた。大きく息をつき、組んだ手を上へと突き出して背伸びをする。
 すぐ隣に在るのは、今では大分慣れた、馴染みのある気配だ。知り合ってから今までの時間は確かに短いけれど、一緒に過ごす時間をそれなりに重ねてきた。知らなかった顔を幾つも見せてくれるようになってきている。
 例えば巽には『族をひとりで壊滅させた』というたったひとつの話からだけでは知ることのできない、幾つもの顔がある。男らしさを求めて力を誇示し粗野な言動をしてみせる一方で、母親を想い、先輩に敬語を使おうと頑張ったり、時には妙に完成度の高い手芸作品を作り上げたり旨い料理を作ってみせたりする。そのどれもが巽の持っている『顔』で、その幾つもの『顔』を全部足して出来上がるのが『巽完二』という人間だ。
 幾つもある『顔』の中には多分、見せたいものや見せたくないものが入り混じっている。中には自分では気付かないものもあるだろう。それを見ることができる場所へ俺を入れてくれている。そう、思う。
 けれど時々、独りよがりになってないだろうか、勘違いしてしまっていやしないだろうか、と。そんな風に考えてしまうことがある。
「…考え過ぎ、だな」
 思わず口をついて出た声に、唇を引き結んだ。聴かれただろうか。こんな近くにいるのだから当然聞こえただろう。様子を伺うようにそろりと隣を見遣ると、色素の薄い見慣れた色の髪が視界に飛び込んできた。え、と思う間もなく肩口に圧し掛かる重み。耳に届く寝息。座ったままいつの間にか眠ってしまった巽が、船を漕いだ挙句に凭れ掛かってきていた。
「いつの間に…」
 ここへ場所を移してからそう何分も経っていない。夕べは(弁当の献立を気にし過ぎて)余り眠れなかったと言っていた。その上に腹が一杯になったとくれば、後は確かに眠る以外にないかもしれない。身体は子供と言えない位に大きいけれど、やっぱり中身は子供だ。堪えきれずくすくすと笑いながら、膝の上に頭が乗るよう座る場所を移動して、そっと横たえてやる。
「う………ん」
 体勢が変わったせいか、少し貌を顰めて巽が唸った。寝てろ、と囁くように声を掛け、頭を幾度か撫でてやる。程なく静かな寝息を再び零し始めた様子に、よし、と息をつき、屈めていた背を伸ばすと後ろの壁へ凭れた。手の平は巽の頭へそっと置いたまま、指先でなんとなく髪を弄る。
 こう見えて結構神経質なところのある巽が、膝の上で無防備に眠っている。その事実に、ちょっとした感動を覚えた。
「襲われる、とか…少しぐらい思えって」
 信用されているのか、そんなこと思いもしていないのか。どちらか判らないけれど、否、そのどちらであっても。少し嬉しくて、少し寂しいような、そんな気がする。
「寝込みなんて、襲ったりしないけど」
 苦笑交じりに呟き、目を閉じた。相変わらず気持ちの良い風が吹いている。このまま少し眠るのもいいか、と思った矢先。巽の寝言が聞こえた。
「―――ん、ぱい……先輩、だけ…っスから、…」
 続きは聞き取れなかったけれど、目が覚めるにはその言葉だけで十分だった。思い掛けない台詞にぱちぱちと目を瞬かせ、むにゃむにゃと寝言の続きをなにやら呟いている後輩の貌を覗き込む。自然と頤へ手が伸び、腰を屈めて顔を近付けた。
 自分はこんなに我慢の利かない奴だったかな、と内心首を捻ってみたけれど、そんな状態でもなければひとりの人間にここまで拘ったりしないだろう、と思う。
「…前言、撤回」
 お前が悪いんだからな、と言い掛かりに近い台詞を吐いて唇を重ねた。啄ばむように幾度か触れてから、舌先で輪郭と合わせ目をなぞり、咥内へと侵入を試みる。その感触から異変を無意識に察知した巽が身動ぎ、目を開けた。一度悪戯を止めて少し顔を上げ、視線を絡めてにこりと笑ってみせる。
「おはよう」
「―――れ、…先輩? 何やって…」
「いいこと」
 寝惚けている巽の唇にもう一度唇を重ねた。その感触で漸く現状を理解したらしい。重ねた唇の隙間からくぐもった呻き声を上げながら、大きな手の平で肩を押し返そうとし始めた。それを咎めるように、触れていた唇を甘噛みして少し強く吸う。その感触にびくりと肩を竦め、巽は動きを止めた。
 唇が触れるほど近くへ顔を寄せたまま『ちょっと付き合え』と囁く。ほんの少し赤くなった貌で困ったように視線を揺らした巽は、間もなく観念したように浅く息をついた。
 少し強張っていた膝の上の身体から力が少し抜ける。先刻俺の肩を押し返そうとしていたその手が伸びてきて、今度は逆に身体を引き寄せられた。挑戦なら受けて立つ、とでも云うような強い視線に、心が浮き立つ。それなら手加減は要らないだろう。なんだか、先刻までひとり勝手に思い煩っていたのが莫迦みたいだ。
 後悔するなよ、と心の中で唱えながら、噛み付くように口付けた。





<了>

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