避暑地と呼ばれる一帯から更に奥へと入った林間にひっそりと建つ、こぢんまりとした日本家屋。其処へ至る山道は、その存在を知る者でなければ辿る事が出来ない程に入り組んでいる。人里との唯一の接点。周囲を鬱蒼と繁る木々に囲まれ外界から隔離されているかの如き、時間に取り残された場所。
洋袴に開襟という、学内での在りし姿からは想像できない砕けた格好で濡れ縁に腰を下ろし、小さな庭を眺める。秋桜の赤や白や桃色の花弁が、涼しげな風に揺れていた。
移り住んでからこの方、植物が好きな要のために、四季折々の花を育てている。最初に育てたのは向日葵だった。要の苗字を戴くその花は、強い太陽の光に真っ直ぐ貌を向け、思いの他元気に伸びて行った。咲いた花を見て嬉しそうに微笑む要と、その笑顔を見る度に己が胸の内に溢れる温かい何か、それを追いかけるようにして、また花の世話をする。要を手伝い学内の植物の世話をした記憶を、時折憶い出し乍ら。
そうして穏やかな日々を過ごす内に夏が終わり、秋を迎え、和らいだ日の光は冬を控えた晩秋の色を見せ始めていた。
ふと背後に人の気配を感じて、秋桜へ向けていた視線を僅かに上げる。襖が静かに開く音、それに畳を歩く足音が続いて、庭へ貌を向けた侭の両肩へ腕が柔らかく預けられる。
「……先生、いた…」
「―――目が覚めたんですね、要君」
肩から廻した腕を幹彦の胸元で組み、優し気な声と貌を覗き込む様に軽く体重を預けて覆い被さってくる様は、まるで幼子が甘えているように見える。背へかかる重みに喉奥を揺らして半身を捩り向き合うと、己が膝の上へと要を促して抱き締めた。
「甘えん坊ですね」
要は廻された腕に嬉しそうに笑んで身体を預け、肩へ乗せていた両腕を入れ替えると脇の下から背中へと伸ばし直して抱きついた。その体勢の侭幹彦の胸元に頬を摺り寄せて貌を上げ、じゃれるように顎先へ小さく口付ける。擽った気に笑んだ幹彦は、お返し、と要の額へ口付けた。
あの日。幹彦が要に対して最終試験を行った7月のあの日、試験に耐え切れず狂いを選んだ要は、物心もつかぬ幼子程の精神状態に退行してしまった。
望みとは異なる結果に幾許かの落胆を覚えたものの、完全に己が手の内に堕ちたという一種歪んだ喜びは何にも増して強く、命の火が消えるその時には要を伴って逝けるだろう事を想い、落ち着かなくざわめいていた心がふわりと落ち着いた。が、現実問題としてそんな状態の要を今迄と同じ環境に置く事は出来ず、幹彦はふたりの居た物理的痕跡を彼の地から抹消し、要を連れてこの地に移り住んだ。
最初は、目覚めて幹彦が隣に居なければ泣いて騒ぎ、幹彦の手がなければ何もできないししようとしない、という状態だった。それが、幹彦がかける言葉の端々を僅かではあるが認識し始め、簡単な応答ができるようになり、片言だけだがいくつかの言葉を返せるようにもなった。が、それ以上の進展は無く、矢張り幹彦以外の人間、例えば時折使い走りとして貌を出す弟の誠司の存在や言葉は認識できない侭だった。
一度顎先に口付けただけでは飽き足らないのか頬や口許へも口付けを向けてくる要に幹彦は微笑みながら、緩く髪を梳き貌を覗き込む。
「夕べから何も食べていませんし、お腹が空いているでしょう。御飯にしましょうか」
少しの間を置いて、小さく頷きが返される。仕草に唇の端を緩めて頷きを返し、膝の裏へ腕を差し入れてゆっくりと抱き上げる。浮遊感が怖いのか心許ないのか、胸許をしっかと握り締め身体を寄せてくる要を見下ろして笑みを深め、こめかみに口付けを落とし乍ら居間へ向かう。
「御粥を炊いてみたんです、今日は鮭ですよ」
手は縋る様に確りと握り締めた侭、けれど少し身体の強張りは解いて貌を上げ。果たして言葉の意味が判って居るのだろうか、幼い笑みを浮かべ幹彦の肩口に頬を摺り寄せる。
その背後、昼下がりの日差しに似た光が降り注ぐ庭先を、一陣の風が掠めて秋桜がざわりとさざめき、部屋の奥へと向かうふたりを見送った。
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