或る晩秋の風景




 どこからか小鳥の囀りが聞こえてくる。晴れ上がった空の青に目を細めていると、また袖を引かれたので腕の中の姿を見下ろした。今度は庭の奥を指差して、抱えられた足を歩くに似て小さく揺らしている。ふむ、と小さく洩らし、草履を履き庭へと降りていく。
 要の視線を追うようにして向けた先には、一株の蔓薔薇が深紅の花を咲かせていた。要に引き合わせてくれたあの学校の裏庭にあった蔓薔薇、それとよく似た花を咲かせる種類の株を買い求め、大事に植えたのは此処に越してきて暫くした頃の事。盛りは5月だから、晩秋の今、咲いている花の数は然程多くは無い。それでも微かに届く薔薇の香気に、最近良く感じる様になった、胸許が締め付けられるに似た感覚がつと己が身の内に生まれて、目を細める。腕の中のこの人が壊れなければ、この感覚が何なのかを教えてくれただろうか。そんなことを思い乍ら、蔓薔薇の直ぐ傍で脚を止めた。
 腕の中の重みが前の方へと傾く。見れば、要が腕の中から身を乗り出して、咲きかけた薔薇へと片手を伸ばしていた。落として仕舞わない様にと脚を一歩踏み出し、もう少し蔓薔薇へ近付く。指先が薔薇の茎を掴む様子を、棘が刺さってしまわないだろうかと心配そうな面持ちで見守る。小さな音を立てて薔薇を一輪摘み取ると嬉しそうに身体を戻す姿を見遣り、ほっと肩に篭った力を抜いた。



 蔓薔薇から外れる視線に用は済んだのだろうと踵を返して、濡れ縁へと戻る。草履は履いた侭、濡れ縁の縁に腰を下ろし膝の上に要を抱く。要は手の中の紅い花弁に小さく口付けると、それを大事そうに両手で持ち幹彦へと差し出した。
「――――私に、…ですか?」
 首を傾げる幹彦を見上げ、要は目を見張る程に鮮やかな笑みを浮かべて唇を開く。
「先生……誕生日」
 零れた言葉に、幹彦は言葉を失った。
 はい、と再度差し出された薔薇を受け取るべく伸ばした指先が、何故か震える。壊れ易い物を扱う様に茎へ触れそっと手に取ると、要はもう一度嬉しそうに笑んで腕を伸ばし、幹彦を確りと抱き締めた。
「…好き……先生」
 己が腕の中から、そして己を抱く腕から伝う、確かな温もり。何より、壊れた彼が覚えていた、自分の欠片に。目許に篭る熱を覚えて瞼を伏せ、薔薇を落としてしまわぬ様気を付け乍ら、抱き締め返した。
「……有難う、―――私も、要君を、…愛していますよ」
 上手く声が継げない。震える己が声を不思議に思う。と、抱き締める腕を緩めて貌を上げた要が、心配そうに首を傾げる。
「先生…いた、い?」
 肩へ廻されていた腕が緩み、幹彦の頬へ伸ばされる。問いの意味が判らず、幹彦は再度首を傾げた。先刻吸った煙草の御蔭で痛みは無い、いいえ、と緩くかぶりを振ると、頬に触れていた指先が己が目許へと滑り、何かを拭う様な所作の後に目の前へと差し出された。
 濡れた、白く細い指。口付けると少し塩辛い味がして。
「泣かない…で」
 心配そうに囁かれる声と、目許に柔らかい感触。
 込み上げる何かに、胸の奥が酷く温かくなる。
 独りでに零れる笑み。これが何なのかは、知っている。不安気な面持ちで縋り付いてくる目の前の彼に、以前教えられた感情。
「大丈夫です……有難う」
 酷く柔らかい声が出せた事に内心驚く。相変わらず眉尻を下げた侭の要の目の前で目許と頬を拭い、自然に浮かんできた笑みを向ける。今まで生きてきた中で最上と言える程に満ち足りた、柔らかな笑顔。幹彦を見上げていた要が漸く笑みを浮かべて、再度肩へと腕を伸ばしてくる。
「先生……大好き。……ずっと一緒…」
 はい、と頷き、寄せられる身体を確りと受け止めて、きつく抱き締めた。
 狂うても尚、以前と同じ様に、要は色々な事を教えて呉れる。慕って呉れる。
 彼の中に棲む己の欠片。嬉しさの余り震える声と指先。そして、深い喜び故の涙。
 掛け替えの無い半身を抱き締め、幹彦は双眸を伏せる。
「愛しています……ずっと、君だけを」
 誓いの如き真摯さを孕んだ声音。零れ落ちた言の葉は、晩秋の空の片隅で薄らと白く光る真昼の月へと、静かに流れていった。





<終>

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