光在る場所




 まだ然程暑くはないが、小春日和というには些かきつい日差しに目許を細めながら、膝に手をつき大儀そうに立ち上がる。肩から提げた手拭いで額の汗を拭き、木陰を見付けて腰を下ろした。見上げた先には、大きな薔薇の樹。否、枯死した桜の樹に巻き付き枝先を空へと伸ばす蔓薔薇があった。青々と繁る葉と、それに埋もれる様にひっそりと座す小さな蕾に目を留めて、微かな笑みを浮かべる。
 品種にはあまり詳しくないが、この薔薇はエトワールドオーランドだろうか、それともヒューディクソンあたりだろうか。そういえば、グルスアンテプリッツに似ているものもあった気がするから、もしかすると、その辺りの交配種なのかもしれない。以前幹彦の蔵書の中から植物辞典を借りて読んでは見たけれど、いかんせん薔薇に関する記述に特化した本ではなかったため未だ判別できず。いずれにしても蔓薔薇は蔓薔薇、世話のコツさえ押さえておけば間違いは無い。昨年同様、きっと綺麗に咲いてくれる。今もちらほらと気の早い花が花弁を開かせていて、要は咲き揃った時の眺めを思い出す風な面持ちで薔薇を眺めていた。
 立てた膝を抱える恰好で、膝に顎を乗せ、手近に在る咲きかけの薔薇へと視線を移す。ふと、初めてこの薔薇の樹に、そして幹彦に出逢った時の事を思い出して、視線が僅かに遠くなった。





 駄目で元々、と学校へ送った手紙の返事が送られて来た時、大分驚いた事を覚えている。封を切り、中の便箋に綴られた文字を追って、更に驚いた事も、よく覚えている。
 進学こそ泡と消えたけれど、学問の傍に身を置ける。何より、この家を出る事ができる。母が儚くなってしまった以上、此処に居ようが何処に居ようが、一人であることに変わりは無かった。それならば、窮屈な思いをして無為に此処で過ごすより、学問の傍に居たいと思った。奨学金の話も貰ったけれど、返す当てが無いからと断り、小使いとして働きながら暇を見て自学研鑽し、そうして学費を貯めて、いつか独力で学問を修めようと思った。
 我ながら大分思い切ったことをした、と今でも思う。
 そして、着の身着のままと言っても過言では無いくらいの小さな荷物を片手に、独りで学校の門をくぐった。



 事務室と校長室、教員控え室と挨拶廻りを済ませ、最後に小使い室へ挨拶に向かう。学内の小使い室には小使い長が住んでいて、自分は下宿に住むことになると聞かされた。多少お金はかかるが、初めての独り暮らし、自由に使える自分の時間に幾許かの高揚を覚えながら、初日の挨拶廻りを漸う済ませて要はほっと一息をついた。
 それから、学び舎から教員室、道場や運動場等見学めいて一通り見終え、裏庭近くに差し掛かったところで、ふと何かの香りに気付いて脚を止めた。香気の元を探すように脚を進めていき裏庭の端に至った時、目に飛び込んできたものは紅。もう少しで盛りだろうと思われる程に咲き誇る薔薇に目を奪われつつ近くへと脚を向けながら、緑を覆い隠す風に広がる紅に、記憶が呼び起こされる。
 いつものように離れの廊下を抜け、桜の蕾が膨らんだことを教えようと障子を開けて、―――――視界に広がる、紅。血の赤。馬鹿な事を言う誠司を殴った拳には痛みは無かった。ただ、何故、と。心だけが、酷く痛かった。
 近付くにつれて視界を紅が覆い尽くしていく。とくん、と、普段は意識すらせぬ鼓動が胸を打った。
 直ぐ傍まで歩み寄り、浅く息をつく。茫と見上げる視界の中、瑞々しい薔薇の下に枯死し尚立ち尽くす桜の幹を見付けた。桜。母さんと見に行くことができなかった桜。『桜の樹の下には、死体が埋まっている』と言った作家は誰だっただろう。薄紅の花弁には人の血を纏い、その根は死人を絡めとり、夜に光を放ち咲き誇る花。かつては死を内包していた、死した桜、それを更に内包する、薔薇。生と死を纏い聳える樹。それ故に、これ程に綺麗なのだろうか。
 取り止めなく廻る思考が眩暈を生む。よろめきそうになり視線を落として初めて、直ぐ傍に佇む人影に気付き、はっと視線を向けた。
「あ、こ、こんにちは」
「……こんにちは」
 慌て取り繕うように挨拶をした要に、彼は笑みを向け挨拶を返してきた。
 怜悧な目許は、口元の笑みや柔らかな物腰とは切り離されたように無表情で、鋭い刃のように見えた。呑まれた様に二の句を継げずにいた要に、ふと気付いた様な口調が向けられる。
「君はもしや、日向要君? 明日からこの学校で働くことになった」
 それが、彼―――――幹彦との出逢いだった。

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