静かな部屋の中、ペンが紙の上を滑る音が微かに響く。
高かった日は大分傾きを見せ、長く伸びる窓枠の影が室内を緩く横切る。机に向かう横顔には赤味を帯び始めた柔らかい日の光が落ち、影を際立たせていた。
幾度目になるだろう、ぱら、と紙を捲る音が響いた後、ふとペンの音が止んだ。机の端に置かれている洋燈へ手が伸び、かたりと覆いを開くと燐寸を擦り、影が濃くなり始めた室内に柔らかな光を灯す。そこでふと、机から少し離れた場所に置かれた椅子から洋燈の光へと向けられる視線に気付いたのだろう、幹彦は視線を上げ緩く笑んだ。
「済みませんね、もう少し掛かりそうです」
「いえ、気になさらないでください。仕事ももう終っていますし、僕が好きでお待ちしているんですから」
向けた言葉に応じて返される要の控えめな台詞に、眼鏡の奥の目許がまた少し緩む。暇潰しにと拝借した蔵書を膝の上へ置き、続きを、と促す要に、幹彦は少し目を細めて頷きを返した。
絡む視線は数秒してまた机の上へ落ち、再びペンの音が響き始める。
音が途切れペンが置かれたのは、窓から差し込む日の光が大分弱くなった頃だった。
紙を纏めて手許へ引き寄せると軽く整え、紙挟みで留めて貌を上げる。
「お待たせしました」
声と共に向けた視線、映る光景に、切れ長の目許が細められる。
静かに椅子を引いて席を立つと、机を回って椅子の傍へ向かう。直ぐ脇に置いてある机に腰を下ろして軽く脚を組み、もう一度目許を細め緩く笑む。視線の先には、椅子の背凭れに寄り掛かり静かな寝息を立てる要が居た。
仕事に存外時間がかかってしまったため、読書の最中に眠り込んでしまったらしい。恐らく、日々の仕事とその合間に熱心に続けられる勉学の疲れが溜まっているのだろう、隣に幹彦が近寄っても起きる気配が無い。
穏やかな眼差しで要を眺めていた幹彦は、つと脚を崩し左腕を伸ばした。前髪にそっと触れ、静かに持ち上げて何時もは隠されている目許を覗く。それでも起きる気配は無く、口許に敷いた笑みが深くなる。
暫くすると髪を持ち上げていた指を静かに引いて、双眸を元の通り柔らかな髪の下へと戻し、身体を起こして手を己が膝へと収めようとする。が、ふと動きを止め、改めて要へと手を伸ばした。先刻触れた前髪を指先で撫でる様に横へ、頬に触れる寸前で一端止め、息を詰める風にして見入る。目を閉じる風な瞬きの後に息をひとつ吐いて、壊れ物に触れるかの様な慎重さで頬に触れると、ゆっくりと顎の方へ撫で下ろしていく。
「……ん…」
不意に零れた微かな声に、頬に触れていた指が小さく揺れて止まる。再び息を詰め様子を窺う様にして、幹彦はじっと貌を見詰めた。けれど覚醒には程遠いのだろう、それ以上声は零れず起きる気配も無いことに静かな溜息が零れ、幹彦の貌に自嘲めいた笑みが浮かぶ。
寄せていた指先で、頬頬から顎先までをゆっくりと辿っていく。柔らかな感触に目を細め、顎を掬う風な所作で指を止める。少しの間の後、感嘆めいた溜息が小さく零れた。
「…君には、矢張り驚かされますね」
囁く風な低い声で呟きを落とすと名残惜しげに指を離し、先刻と同じように脚を組んで、膝の上に腕を置き頬杖をつく。改め向けた視線の先で、洋燈の光に作られた影がその揺らぎに合わせて小さく揺れ、その一瞬毎に表情が変わったかのような錯覚に陥る。
注がれる視線はどこまでも優しげで、何処か物悲しげにも見えて。
何かを思い出す風な面持ちで、幹彦は飽くことなく要を見詰めていた。
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