学び舎とは学徒のためのものであり、第一義的には学問を究めるために存在するといって良い。学徒は、寄宿舎生活においては己を律し、学究においては真摯な態度で臨むことが求められる。そして教師は、発展途上である学徒の範となりえる存在であることを求められる。故に、学び舎を厳粛な場として捉えている者は多い。
要とて例外ではない。小遣いの仕事で教場に立ち入ったときでさえ、背筋がぴんと伸びるような心地がする。
もともと要の学問に対する意欲は高く、自ら望んで入学試験を受験し、そして最高得点をとって合格した。本家の事情を呑み込み入学を断念はしたものの、憧憬は止まなかった。入学のための学費を自ら貯める方策として、そして少しでも学問に近い場所へ身を置くため、『学内の小遣い』という職を得た。
だが、学問に近い場所へ身を置き、そして個人的に勉強をみてくれる教師を得てしまったせいか、『いつか入学を』と思うその『いつか』を具体的に思い描こうとしていなかった。明確な目標、現実的な展望を持たぬまま、いつの間にか一年が経っていた。この地で過ごす二年目も、一年前の要のままであったなら、同じようにして過ぎ去っていただろう。
それが今や、春には一回生として入学を控える身となっている。
変わったのだ、と思う。当時は思い返すことすら辛く、厭わしく感じたあの一件が、一年前の要を今の要へと変えたのだ。
「―――何か、考え事ですか?」
ふと物思いに耽っていた思考に、柔らかい声が重なった。
「いえ―――その、…思い立ってから今日まで、随分と早かったような気がして」
上げた視線の先で微笑む幹彦の、誇らしげな表情がなんだか照れくさい。
要はその日、いつものように小遣いの仕事を終えてから幹彦の教授室を訪れた。そこで、先日受験した来年度の新入学生選抜試験に合格したことを告げられたのだ。
「要君が頑張った、その成果ですよ。当然の成り行きです」
「先生の教え方が上手でいらっしゃるからです。…それは、もちろん僕も一生懸命頑張りましたけれど」
「それならばやはり、頑張ったからこその結果でしょう。―――合格おめでとうございます、要君」
「……ありがとう、ございます」
嬉しいのだけれど、やはり照れくさい。頬が少し熱い気がする。
引き寄せられるまま幹彦の膝の上へと座ってしまっている今の格好も、同じように照れくさい。怜悧で、けれど優しく微笑う顔が直ぐ近くにあって、幾分か鼓動が早くなっている。
「お祝いはどうしましょうかねぇ」
「いろんなものを今までにたくさん戴いてますから、…気になさらないでください」
「すぐに遠慮してしまうのは、要君の悪い癖です。…頑張ったことへのご褒美ですから、なんでも言ってください」
膝の上に抱いた要の背を幹彦は緩く撫でながら、お祝いを贈る気満々といった表情でにっこりと微笑んだ。こうなると、きっと何か思いつくまで引いてはくれない。どうしたものか、と視線を彷徨わせる。
「では―――色々と教えてくださった先生へ、僕からお礼がしたいので、…それが僕へのご褒美、ということに」
「それでは本末転倒です」
そういって幹彦は首を横に振った。やはりこれでは騙されてくれないらしい。いよいよ困って、眉尻が下がっていく。
「そうしたら……キッスを、してくださいませんか」
用意する手間がかからなくて、僕が今欲しいものは何か。少し考えてから幹彦の肩口に顔を寄せ、極小さい声で囁くように告げる。
「おや。珍しいですね、要君からそう言ってくれるなんて」
「…僕だって、先生が相手なら…少しくらい、思ったりします」
「少し、ですか?」
「………意地悪だ」
拗ねる要を見て、幹彦が楽しそうに笑う。その手の平が要の背を撫で上げて長い髪に触れ、緩く梳き下ろした。少しだけ俯かせていた顔を覗き込まれる。
「要」
敬称をつけずに名を呼ぶ低い声に、要の背筋が微かに震える。
「先生…」
頬へ添えられた幹彦の手に誘われるようにして顔を寄せると、ひんやりとした薄い唇が重ねられた。見知った感触に、腰の辺りがぞくりとざわめきだす。
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