繋がる糸

 薄い壁を隔てた隣室から、時折派手な物音が聞こえてくる。賑やかな笑い声が聞こえてくるということは、今のところ馬鹿は馬鹿同士仲良くやっている、ということだろう。
 他所から五月蝿いと怒鳴り込まれたところで面倒を見るつもりは毛頭無い。むしろ他人の振りをするつもりで居る。が、此方の部屋へ助けを求めに来られるとそれはそれで面倒臭いから、仲良くしているに越したことはない。―――――しかし、それにしても。
「壁が薄過ぎる」
「―――カードが使えない街では仕方ないでしょう。現金の手持ちは余りありませんからねぇ」
 風呂場の方向から八戒の声が聞こえてきた。近付く足音に視線だけ向け、口許へ煙草を寄せる。
「喧嘩をしない訳じゃありませんが、あのふたり、最近は仲が良いみたいですし。あれはあれでいいんじゃないですか」
 声が近付いてくる。次いで、腰掛けているベッドが軋んだ。部屋にはふたつベッドがあるのに、だ。
 軽く煙草を吸い、深い溜息と共に煙を吐き出して立ち上がる。
「少し外へ出てくる」
「こんな夜遅くに危ないですよ?」
 ベッドから離れようとしたところで、腕を掴まれてしまった。足を止め手を振り解こうとするが、掴む手は離れない。眉間に皺が寄っていくのが、自分でも判る。
「離せ」
「接近戦苦手なんですから、―――――ほら」
 もう一度強く腕を振り払おうとした瞬間、先手を打つように八戒が動いた。強く掴んでくる手に腕を強く引かれ、同時に八戒のもう片方の手で己が肩を押されて、あっさりとベッドへ引き倒されてしまう。柔らかいベッドの上だったおかげでさしたる痛みはなかったが、それでも衝撃が無い訳では無い。軽い目眩に襲われ動きを止めてしまった隙をつかれ、八戒に圧し掛かられた。
「夜は見通し悪いんですから、こんな風に襲われてしまいますよ?」
「お前が襲っていたら世話無いな。…どけ」
「どこの誰だか判らないような方々と遊ぶ暇があるなら、僕にください」
 半身乗り上げられた体勢から力だけで押し退けるのは骨が折れる。顔は肩口に埋められたままで表情は見えない。
 半ば諦めに近い溜息をつき、手に持ったままだった煙草を口許へ運ぶ。煙を吐きながら身体の力を抜くと、圧し掛かったままの八戒が身じろいだ。
「…いいんですか」
「止めるつもり無いだろう。なら聞くな」
 肩口から、微かに笑う気配を感じた。確信犯はこれだから性質が悪い。完全に肩から力を抜き、最後にもう一息煙を吐いて、緩く揺れる焦げ茶の髪を見遣った。
「火、消すからちょっとどけ」
「―――ああ、それなら僕が」
 上半身を軽く起こした八戒が伸ばしてきた手へ、随分短くなった煙草を渡す。注意深く受け取ったそれをサイドテーブルの灰皿へと運び、火を揉み消す。その手許で視線が止まる。
「お前、それ…」
「え? …ああ、これ、ですか」
 見せるように開いた八戒の手の平には、数日前悟空が油性マジックで書いた生命線が、未だに残されていた。
「洗ってない、―――訳はないだろうが。本気で洗ってないだろう」
「―――、…ええ、まぁ」
 再び眉根に皺が寄る。緩めかけた目許へ力を籠め、睨み付けた。
「免罪符のつもりなら―――――」
「…違う」
 遮るように発された八戒の台詞、その独白めいた響きに、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「―――判ってます。意味が無いことくらい。…でも」
 覆い被さる八戒の手が背中へと廻される。首筋に触れるほど近くへ寄せられた唇が、吐息と共に肌へと押し付けられた。続く言葉の気配は無い。僅かに上がる体温に目を閉じ、息を吐く。
「気が済んだらとっとと消せ。鬱陶しい」
 首筋を滑ろうとした八戒の動きが止まる。はは、と、乾いた笑いが零れた。
「敵わないな、本当に」
「当たり前だ。誰だと思ってる」
 くつくつと喉奥から零れ落ちる笑い声が、唇を通して肌から伝わる。背に廻されていた手が腰へと滑り降り、首筋を伝いあがった唇が耳の後ろを擽っていった。ざわりと粟立つ感覚に身を任せる。
「そうだ、声は抑えてくださいね? 壁、薄いようですから」
「…殺されたいか」
「物騒だなぁ」
 馴染みつつある体温に包まれ、感覚が逆に研ぎ澄まされていく。許し難い想いと全て委ねてしまいたい衝動に、思考が融かされていく。程なく訪れるだろう酩酊と愉悦にどこか期待を寄せている。そんな己に多少の苛立ちを感じながら、その頭の片隅で思う。
 立つという行為を知った子供が、躓いても転んでも諦めず、幾度でも立ち上がろうとするように。
 人は誰でも、再び立ち上がることができる筈だ、と。







<了>

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