強かな痛み
〜1〜

 夕方からしとしとと降り始めた雨は次第に強くなって行き、夜半を疾うに過ぎた今も絶え間無く地面を叩き続けている。
 灯りを落として久しい部屋の中、寝相の悪い悟空が足で壁を蹴る鈍い音が時折響く。その隣で眠る悟浄は、女の名前らしきものを寝言宜しく呟きながら寝返りを繰り返し、安宿のベッドに耳障りな悲鳴を上げさせている。起きていても寝ていても五月蝿い、と言わんばかりのため息を吐いた三蔵は、眉根を顰めて寝返りをうち騒音源の二人へ背を向けた。

 戸外にはただ、雨の音ばかりが響いている。雨音が作り出した静寂を、雨音自身が覆い尽くしている。
 途切れること無く続く雨音は、否が応でも鼓膜のその奥へと侵入する。単調な音の繰り返しは一種の催眠誘導にも似ていて、普通ならそのまま引き摺られるようにして眠りの闇へ落ちて行くのだろう。けれど、抗い難い痛みを伴う雨の記憶が、それを許さない。
 眠りに落ちかけては覚醒を繰り返す雨の夜、加えて耳障りな雑音が至近距離に在るとなれば、流石に眠れたものではない。苛立ち紛れに舌打ちを零しふと目を開くと、壁の方へ顔を向け横たわる八戒の姿が見えた。
『たまーになんですけれど、悟浄は寝言がひどくなるんです。…良かったら僕、間に入りますけど』
『……要らん。御前が壁際に行け』
 くじ引きで寝場所を決めた時の遣り取りを思い出し、小さく溜息をつく。最低でも二部屋取れるところに泊まるべきだった、と後悔しても今更詮無い事。次は絶対二部屋だ、と独り呟きながら、引き上げた上掛けに頭まで潜り込む。少しだけ遠退く雑音に身体の力を抜き、三蔵は改めて目を閉じた。
 ゆっくりと輪郭を崩し始める意識の中、けれど、雨の音だけが知覚から離れない。

 遠く近く、絶え間無く響く雨音は、胎児が母親の胎内で聞く音に似ていると云う。閉じられた膜に包まれ温かな羊水の中にたゆたう小さな命が耳にする音とは即ち、母の体内に流れる血の音であり、内臓が、細胞が、命の続く限りと蠢く音であり、胎内に宿る新たな命を育む音でもある。その音は生れ落ちた子供へと継がれ、己が耳を塞ぐように手を当てた時に聞こえてくる微かな音へと重なっていく。
 水は雨となって遍く大地へ降り注ぎ、繁茂する緑となって食物連鎖の輪へと没入する一方、天へと還りまた新たな雨となる。血の流れと水の流れ。命を育む永遠の循環は、遠い昔の閉じられた世界を想い起こさせるのか、人の心に安心感を齎すと云う。
 夢想の最中、三蔵の瞼が反論を唱える如く半ば開かれた。安心感とは程遠い、限りなく続く喪失感と焦燥感。眉根の険が深く深く刻まれる。ぐ、と強く握り締めた手の平に爪が食い込む感触を覚えたその時、何かが動く気配に気付き、深みに落ちかけていた意識がゆっくりと浮上した。

 三蔵が顔を向けている方向から、寝台が微かに軋む音が断続的に聞こえてくる。壁際を向き横たわっていた八戒が起きたようだった。夜中にどうかしたのか、という考えが頭の隅を過ぎるが、殊更干渉すべきことでもない。今は眠ることだけ考えよう、と改めて眼を閉じた所で、今度は靴を履くような音が聞こえてきた。ややして立ち上がる気配と共に微かな足音が部屋の中に響く。
 何処へ行くのだろう、とは思うものの未だ止める気の起きない三蔵の耳へ、今度は扉のノブが回る音と、微かな呟きが聞こえた。その言葉に、三蔵ははっとした様に眼を見開く。
 布団を被った侭で部屋の扉が閉まる音を聞き、眉根を顰めて起き上がる。寝台の上に胡坐をかき、雨音に混じる八戒の足音に耳を澄ました。向かう先はどうやら宿の玄関口らしい。視線を廻らせると、呑気に布団を蹴飛ばしている悟空と両腕で布団を抱え込んでいる悟浄が、八戒の様子には少しも気付かず眠り込んでいた。
 窓の外では未だ雨が降っている。三蔵は深く溜息をつくと大儀そうに立ち上がり、白の衣を羽織って八戒の後を追った。

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