強かな痛み
〜2〜

 薄暗い廊下を抜け宿屋の表戸を開けて外へと出る。途端に強くなる雨の匂いに三蔵は顔を顰め、濡れぬよう庇の下に佇んだ侭で辺りへと眼を向けた。
 部屋を出ていく時、八戒は確かに『花喃』と言った。八戒がまだ悟能と名乗っていた頃に犯した罪の遠因となった、彼の姉でもある女性の名だと記憶している。
 大事な何かを失くした記憶が、きっと未だに消えぬ侭なのだろう。しかし、それ程長くも深くもない付き合いながら、彼女の名を呼び夢遊病の如く戸外へと抜け出して行く八戒を見るのは今日が初めてだった。何故、『今日』なのか。

 顔を顰めた侭、黒に塗り潰された空を見上げる。耳につく雨音が酷く煩い。軒先から眺めて見付かるとは思って居なかったが、少々面倒臭そうな事になるかもしれない、と溜息をつく。ふと落とした視線の先に、強い雨脚の所為で消えかけている足跡を見付けた。
 他には足跡も見当たらず、それの向かう先、少し離れた所に枝を大きく茂らせた大木を見つけて、目を細める。あの下ならば然程濡れはしないだろう、と踏んで、けれど矢張り面倒臭そうな風情は抜けぬ侭、一息に駆け出した。
 肩へ顔へと当たる雨は大粒で、悪くなる視界に目許を顰める。足許で跳ねる雨水は裾へもきっと跳ねているだろう。くそ、と呟きながら、漸う樹の下へと辿り着く。
「…どうして俺がこんなことしなきゃならねェんだ」
 濡れた肩を払いながら三蔵は舌打ちをし、軽く息をついて辺りを再度見廻した。煙る雨の所為でどうしても視界は制限される。眼を凝らして見知った人影を探しながら大木の後ろ側へ回った所で、目当ての後姿を見付けた。

 案外呆気なく見付かったその背中は、在らぬ方向を向いた侭で雨の中佇んでいた。服の色からすると、随分雨に濡れてしまっているようだった。
 右斜め後方からという角度では表情を見て取ることはできず、風情には未だ不穏な気配を感じる。が、取り敢えずは見付かったことに軽く息をついて腕を組み、大きな声で名を呼んでみる。
「八戒!」
 強い雨脚に負けぬようにと大声で叫んだ筈だが、聞こえていないのか聞いていないのか、八戒は全く動かない。眉根を寄せ、もう一度、と大きく息を吸い込む。
「八戒! 部屋へ戻れ、こんな雨の中何やってる!」
 悟空と悟浄を怒鳴りつける時と同じ位の声を出した積もりが、それでも聞こえていないらしく少しも動かない。出て行く間際に零した言葉が幾ら気になったからといって、雨の中自ら探しに出掛ける等酔狂以外の何者でも無い。更に自ら身体を雨に晒す等有り得ない、と思いながらも、全く反応を見せない背中に業を煮やし、三蔵は八戒の傍へと駆け寄った。
「おい、聞いているのか?! 部屋へ戻れと―――」
「……雨、が…」
 近付く人の気配に反応したのか、それともすぐ近くで放たれた声に反応したのか。判然とはしないものの、掛けた言葉を遮るタイミングでぽつりと零れた声に、三蔵は口を噤んだ。心此処に在らずといった八戒の様子は、今迄に一度も見たことの無いものだった。しかし、夢遊病というには何処か違和感がある。随分と雨に打たれ色を失いかけている横顔を注視し、続く言葉を待った。
「あの日と同じ―――行か…な、きゃ」
 此処ではない何処かを見詰めた侭の八戒は、そう呟き歩き出そうとする。折角見付けたのにまた何処かへ行かれては堪らない。三蔵は懐へ手を入れ、銃を取り出した。歩いて行こうとする八戒の足許すれすれの所へ狙いを定め、発砲する。
 大きな銃声が雨音しかせぬ夜の静寂に響く。同時に歩みを止めた八戒は、けれど視線を廻らせることも何もせず、何事も無かったかの如く数秒の後再び歩き出した。
 舌打ちしながら三蔵は駆け寄り、肩へ手をかけると強引に自分の方へと振り向かせた。が、揺れる翠の瞳は矢張り呆とした侭、視線は三蔵を突き抜け遥か遠くへと向けられている。
「助けに……行かないと―――」
 八戒は矢張り、例の大量殺戮事件が起きる直前へと精神状態が戻ってしまっているらしい。先刻呟いた、『雨』という言葉、そして、『あの日と同じ』という言葉からすると、立ち戻りの契機は―――――雨、だろうか。
 八戒の視線がぐるりと廻り、振り向かされた方向から先刻行こうとしていた方向へと向きなおる。同時に、その肩を掴む三蔵の手を払い除けようとしてか伸ばされた八戒の手を見遣り、幾度目になるだろうか、三蔵の舌打ちがまた零れた。
 囚われるな、とは言えない。けれど、囚われる余り、痛みの従僕と成り下がってはならない。―――――自戒の如く、頭の中で繰り返される言葉。
 己の主人足り得るのは、己だけ、だ。

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