三蔵は、己が腕へと伸ばされた八戒の腕を掴んだ。行動を阻まれた八戒は、初めて顔を顰めた。八戒は、見掛けは優男然としているがその実、不思議な程体術に長けている。まともに遣り合っては身体が幾つあっても足りない。隙のある今のうちに何とかするしかなかった。
八戒は、己が動きを制限する三蔵の手を振り払おうとした。その手を逆に振り払った三蔵は、八戒の襟首を掴んでぐいと己へ引き寄せる。不意の所作に八戒は体勢を崩し、反射的に足を半歩前へと踏み出した。
二人の距離が縮まる。三蔵は八戒の肩に掛けていた手を外し、項へと伸ばした。程なく、八戒の頭が三蔵の胸許へ抱き寄せられる。
「八戒、聞け」
頭を抱き込まれた八戒はその瞬間、何処かへ行こうとしていた動きを止めた。中途半端な侭動きを止められてしまった身体を支えようとしてか、八戒の両腕が白い袂を掴む。それを見下ろし、言い聞かせる風な声音で三蔵は話しかける。
「お前は悟能じゃない。八戒だ」
袂を掴む手の平に力が篭り、皺が深くなる。抱え込んだ八戒の頭は大分濡れそぼっていて、三蔵の胸許に雨水がじんわりと滲みていく。
「―――――花喃はもう、この世には居ない」
落ちてきた言葉にびくりと肩を震わせた八戒が、むずかる子供のようにかぶりを振る。認めたくない事実、許せぬ己の不甲斐無さ。全て受け止めそれでもまた前へ進もうとする姿の奥底に何が横たわっているのか、それは誰にも判らない。
降り続く雨に身を打たせた侭僅かに目許を顰めた三蔵は、八戒の頭を抱く腕に力を篭めた。
「御前が行こうとしている城は、もう何処にも無い」
「……が、う………違う!」
振り絞るような声音が事実の否定を叫ぶ。彼の人がこの世から居なくなってしまったことを信じたくない、己が力が及ばなかったことを認めたくない。同じ感情だとは言えないだろうが、似た感情なら三蔵にも覚えがある。
あの日も矢張り、今日と同じような雨の日だった。
八戒の記憶の中に眠る『あの日』も、こんな雨の日だったのだろうか。
「彼女は―――――花喃は、僕の助けを待ってる!」
忌むべき日、認めたくない出来事、悲しみの記憶。それら全てが、雨と共に在る。それは、時としていとも簡単に、暗い記憶の淵へと人を引き摺り込む。
その人の記憶の中に何が眠っているのか、何が在るのか、他人なら言わずもがな、喩え本人であっても判らぬことは多い。そして、その在り様が良いのか悪いのか、それは誰にも判らない。
「焼けて何も無くなった城跡をその眼で見ただろう。……もう、何も無い事は、お前が一番よく知っている筈だ」
「―――――なに、も……無い…―――」
ぽつりと一言零したきり絶句してしまった八戒の膝が、かくりと力を無くして屑折れる。頭を抱いた腕をほどく訳にも行かず、雨の中座り込んでしまった八戒に合わせて三蔵は片膝を折り屈み込んだ。
「俺と共に西へ行くと御前は言った。…何処かへ行くというなら、俺と共に来い。――― ――――八戒」
もう一度、強くはっきりとした発音で新しい名を呼ぶ。三蔵の腕に包まれていた八戒の身体から、震えが嘘のように消えていく。
ふと、雨脚が少し、弱くなった気がした。
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