悩んでいた。
文字通り、『頭を抱えて』悩んでいた。テラスに置かれたテーブルへ突っ伏すようにして上肢を折り、眉を顰めて思い悩む。
「……どう…したんでしょうか…」
ほうっと悲しげな溜息がひとつ零れる。貌の向きを変え、暮れ始めた空へ視線を流してまた頭を腕の上に乗せる。
「嫌われて……しまったんでしょうか……」
紅に染まる空にうっすらと白く光る月を眺めながら、ルヴァの脳裏によく見知った銀の髪が描かれる。再度の溜息と共に、青鈍の視線が遥か遠くへ流れていった。
始まりは数日前、昼の私邸へと遡る。
お茶請けに、と頼んでいた煎餅が届けられ、うきうきと部屋へ取って返したルヴァがふと窓の外へ向けた視線の先、見慣れた銀糸が見えた。笑みを浮かべて窓を開け、少し身体を乗り出すようにして声を掛ける。
「こんにちは、ゼフェル〜。忙しくなかったら、お茶、飲んで行きませんか?」
普段からあまり大声を出さないルヴァが、大きい声を上げて道を横切っていくゼフェルを呼び止めた。その声に脚を止めたゼフェルが視線を廻らせてルヴァを見つけ、手を振る。
「ちょっと急いでッから、また今度行く!」
じゃーな、と手にした箱を抱え直し、自分の私邸とは逆の方向へ歩いていく。また今度、来てくださいね〜、と声を掛けながら後姿を見送り、小さく溜息を零す。
「何処に……行くんでしょうか…」
少し首を傾げながら、窓をかたりと閉める。手に持っていた箱を見下ろし、もう一度小さく溜息。以前試しに取り寄せてお茶請けに出したところゼフェルに存外好評だった煎餅が、箱の中身だった。仕方無いですねぇ、と小さく零し、私室へ脚を向ける。
それが、疑問の始まり。
数日後。聖殿にて。
ある惑星の調査結果の分析を研究院と共に行っていたルヴァは、必要な資料を自ら抱えて自分の執務室へと向かっていた。幾つか角を曲がり夢の守護聖の執務室に差し掛かったところで、不意に開かれた扉にぶつかってしまいそうになり、慌てて避けた反動で後ろへ倒れ込み廊下に本をばら撒いてしまう。
「っう、わ、大丈夫かっ?」
床へと打ち付けた腰の痛みに小さく呻くルヴァに声が掛けられる。ええ、なんとか…、と小さく返し見上げた先で、揺れる銀糸。
「……ゼ…フェル…?」
「おう。悪かったな、急に扉開けちまって。……怪我、してねぇか?」
心配そうに貌を覗き込まれ、貌が熱くなるような気がして。それでも心配してくれることがなんだか嬉しくて、首を小さく傾けて微笑む。
「ええ…少し腰を打ちましたけれど……大丈夫ですよ。私の方こそ、済みません」
「ちょっと、ゼフェル?なんだか凄い音したけど……?」
本が床にばら撒かれる物音に、部屋の主が扉の向こうから貌を覗かせる。ルヴァが通りかかった時に俺がいきなり扉開けちまってよ、と振り返ったゼフェルが応えた。
そういえば、此処はオリヴィエの執務室前。仲がそれ程悪い訳ではないが、部屋に訪れる程ふたりの仲は好かっただろうか。床に座り込んだままふたりを見上げたルヴァは、微かに首を傾げた。
「大丈夫?」
苦笑しながら足許に転がっている本を拾い上げ、オリヴィエがルヴァへ手を差し出す。済みません、と慌てて薄い笑みを口許に張り付かせて差し出された手を掴み、漸く身体を起こす。自然、3人でばら撒かれた本を拾い集め、ルヴァの腕へと返す。
「こんな沢山抱えてるから……部屋までひとりで大丈夫?手伝おうか?」
くすりと笑って抱えられた本の山半分を取ろうとしたオリヴィエに、ああ、大丈夫ですよ〜、と微笑って返す。最後の一冊を山の上に乗せたゼフェルに声を掛けようとルヴァが口を開いた瞬間。
「悪り、俺ちょっと急ぐから。またなっ」
にっと微笑うと、気をつけろよ、とルヴァの肩を叩き、ばたばたと走っていってしまう。何も言う間を得られぬままルヴァはその背中を見送るしか無く。
その横顔を見て小さく息をつくと、ルヴァの返事を半ば無視してオリヴィエはひょいと本の山を半分程手に取って抱えてしまう。
「あ、あの〜、オリヴィエ?」
「ほらほら、人の好意は素直に受け取っときなさい?……行くわよん」
鮮やかな笑みを返し、朱子織の裾を翻して歩き始めてしまうオリヴィエを、ルヴァは慌てて追いかける。
そういえば此処暫くゼフェルとまともに話をしていない。数歩歩きかけ、ふとゼフェルが掛けていった方向を見遣ると、また小さく溜息をつく。
「ルヴァ?」
「ああ、済みませんねぇ、オリヴィエ……今、行きます」
少し離れたところで立ち止まり声を掛ける彼に苦笑めいた笑みを返し、ルヴァは執務室へと脚を向け直した。
こうして、疑問が疑念へと変わっていく。
オリヴィエの執務室前でゼフェルに逢ってから更に数日。
「あ〜……最近ゼフェルにゆっくり逢えませんねぇ…」
もう一週間近くルヴァはゼフェルと一緒にお茶を飲んでいなかった。お茶を飲むことが目的ではなく、ゼフェルとふたり、他愛も無い話をして静かな時間をゆっくりと過ごすこと、それが目的。今までは、誘えば必ずと言っていいほどに来てくれていたし、誘わずとも二日と空けず遊びに来てくれていて。だからこそ、寂しさが募る。
研究院へも聖殿へも、必要最低限の時間しか居ないらしく、直ぐに私邸へ帰ってしまうらしい。…と、すれば。
「……逢いに行ってみましょうか…」
ぎ、と身体を預けていた揺り椅子を軋ませて、天井を見上げる。首を捻るようにして窓の外を見遣ると、清々しい朝の空気がふわりと入り込んできた。頬を撫でる風に目を細めて暫し窓辺を眺め、小さく頷く。
起き上がると呼び鈴を鳴らし、程なく扉を押し開いて現れた執事に、少し出掛けてきます、と告げる。上着を羽織ると玄関先まで見送りに来た執事の、いってらっしゃいませ、という声を背中に聞きながら、鋼の守護聖の私邸へと向かった。
前髪を揺らす風に微笑みながら、見えてきた私邸に視線を向ける。
「居ますかねぇ…」
少し不安げに首を傾けながら、扉の前に立ち、ひとつ深呼吸。
呼び鈴を押し、待つこと数秒。静かに開かれた扉の向こうに、よく見知った鋼の守護聖付きの執事が姿を見せた。
「これは……ルヴァ様。お久しぶりでございます」
深々と頭を下げる執事に微笑みかける。
「久しぶりですね。お元気でしたか?…あの…今日は、ゼフェルに逢いに来たのですが……居ますかねぇ?」
ルヴァの言葉にふと困ったような笑みを浮かべ、執事が頭を下げる。
「済みません……今朝から作業室に篭りきりで、お取次ぎするなと申し付けられておりまして…」
「……そうですか…」
あからさまにがっかりした様子で視線を落とし、貌を俯かせる。ふたりの間にある結びつきを知っているだけに、申し訳無さそうな表情で執事も視線を落としてしまう。ふと貌を上げ、何事か口にしようとするけれど、やはり口を閉ざす執事。
小さく息を吐き、苦笑を口許に刻んでルヴァが貌を上げる。
「仕方ありませんねぇ……日を改めましょう」
申し訳ありません、と頭を下げる執事に、貴方も大変でしょうけれど…頑張ってくださいねぇ、と小さく返し、ルヴァは自分の私邸へ帰ろうと踵を返した。
「あらぁ、ルヴァじゃない。ゼフェル、居ないの?」
玄関から踵を返した様子に首を傾げ声を掛けてきたのは、オリヴィエだった。小脇に小さな箱を抱え、背伸びするような仕草で執事が佇む扉の奥を覗き込む。
「居るには居るようですが……オリヴィエは、どうして?」
「……ん〜、ちょっと、ね」
いつになく歯切れの悪い口調に首を傾げるルヴァの背中に、ばたばたと誰かが走ってくる音がして。驚き振り返った視線の先に、執事を押し退けるようにして貌を覗かせたゼフェルが映る。
「オリヴィエ、てめぇ、おせーじゃねぇかっ」
「無理難題ふっかけたのはどっち?」
ふふん、と笑うオリヴィエと紅い瞳を滾らせるゼフェルの視線ががちりとぶつかり合う。その雰囲気に息を呑んでただ見るしかなく佇んでいたルヴァにゼフェルが気付き、目を向ける。
「ルヴァ、来てたのか。悪ィな、まだちょっとやることあるから、また今度」
にっと笑いかける彼に、反射的にいいえ、と応えて微笑みを返してしまう。
小さく頷いて視線を廻らせ再びオリヴィエを捉えると、その視線に応えるようにオリヴィエが脚を踏み出した。
「御前の所為で予定狂っちまった」
「私の苦労も察しなさい、オコサマ」
軽いやり取りをしながら奥へ連れ立って足を向けるふたり。それを半ば呆然と見遣ったまま立ち尽くすルヴァに、執事はもう一度深く頭を下げ、ゆっくりと扉を閉める。
ばたん、と扉の閉まる音に漸く我に返ったルヴァは、乾いた笑いを口の端に浮かべ、深く溜息をつきながら帰途についた。
此処に至り、疑念が困惑に変わり、懊悩を生み出す。
そして、今。
暮れなずんだ空にほっそりとした月が現れ、ルヴァの懊悩が更に深くなっていく。
えてして夜というものは考えが悪い方向へと流れてしまいがちになる。今のルヴァも例外ではなく、自分の姿を映し始めたガラス窓をただただぼんやりと見ていた。
幾度目になるだろう、零された深い溜息に重なるように、見遣っていた窓ガラスがかたりと鳴った。落とそうとしていた溜息を途中で呑み込むと息を止めるようにして震えた窓をじっと見詰める。暫くすると、小さい石が投げられたのだろう、かつん、と硬質の小さい音が響き、弾かれたようにルヴァが身体を起こした。
窓辺へ駆け寄り、がたんと常に無い荒々しさで開け放つ。
突然ゼフェルがルヴァの私邸を訪れるときと同じ現象に、ルヴァの瞳が僅かに生気を取り戻す。暗いテラスへ出ると手摺に身体を預けるようにして眼下を見廻した。
「ルヴァ、こっちこっち」
小さく返された声に視線を向けると、うっすらと光を弾いて煌く銀糸が目に飛び込んできた。
「…ゼフェル…!」
「今そっち行くからよ、少し退いてろ」
声と同時に窓の傍に立つ大きな樹がゆさりと揺れた。はっとして後ろへ下がると同時に枝がばさりと揺れ、普段着のゼフェルが目の前に現れる。
姿に見惚れるように立ち尽くすルヴァの前で、髪についた葉を適当に払うと、駆け寄って貌を見上げる。
「久しぶり……悪かったな、ずっと来れなくて」
伸ばされる腕。身体をぎゅっと抱き締められて漸く実感が湧いたのか、ゆるりと瞳を潤ませた。
「あ、あ、泣くなよ?頼むからっ」
焦って両の手の平で頬を包み込み、掠めるように口付けて額を合わせる。少し成長した身体は背伸びしなくても貌を合わせられるほどにはなっていて。息を小さく呑みながら、泣き笑いのような表情を浮かべてルヴァはこくりと頷いた。
備え付けのポットからお茶を注ぎ、テーブルへ運ぶ。背負っていたディバッグを足許に下ろして椅子に座るゼフェルを見遣り、どうぞ、とお茶を差し出す。一緒にお茶請けの煎餅を添えと、これ好き、と笑いながら、さんきゅ、と返ってくる声にふわりと笑い、隣の席へと腰を下ろした。
出されたお茶をひとくち飲み、隣のルヴァを見遣ると、徐に上肢を折って足元のディバッグから小さな箱を取り出す。かたりと手に持っていた湯呑をテーブルに下ろし、首を傾げるようにして隣を見遣る青鈍に、少し照れたような表情のゼフェルが映る。
「あの……さ、これ……ルヴァに、やる」
ぶっきらぼうな言葉と共にぐいっと差し出された手の平に乗った、小さな箱。ありがとうございます、と言いながらも、不思議そうな様子のルヴァに、開けてみてくれ、とゼフェルの声。頷いて包みを取り開いた箱の中には、金細工に宝石がちりばめられたターバンの止め具が姿を現した。
絶句して暫くじっとその細工と配置の美しさに見惚れ、ついで問うような視線をゼフェルへ向ける。ちら、と一瞬視線を向けてきたゼフェルは直ぐに視線をそらし、やはり照れたような表情で自分の髪をくしゃりと掻き混ぜた。
「今日……誕生日だろ?………誕生日プレゼント」
ぼそりと呟かれた言葉に、ふわりとルヴァが破顔する。微かに涙の滲む目許を指先で擦り、もう一度、ありがとうございます、と柔らかな声音で囁くように呟いた。
「細工とか……デザイン、決まんなくてさ。あと、石もいいモン見つかんなくって…オリヴィエに頼んだんだ」
心配かけた……御免、と貌を伏せて呟いたゼフェルの横顔へ、そっとルヴァが貌を近付ける。近付く気配にふとゼフェルが貌を上げた瞬間、その頬に触れる柔らかいルヴァの唇に、紅い瞳が見開かれる。緩く首を左右に振りながら、青鈍の瞳が綻んだ。
「理解ったから……もう、いいです」
腕を伸ばし、ゼフェルの首へ廻すと身体を寄せ、緩く抱き付く。少しの驚きを瞳に浮かべつつ、ゼフェルもルヴァの背中へと手を伸ばし、抱きとめた。
「……ありがとうございます…ゼフェル……」
「ん……誕生日おめでと…ルヴァ」
ふわりと髪へ落とされた口付けに、潤んだルヴァの瞳が嬉しそうに微笑んだ。
「御飯、まだでしょう?…用意させますから……食べていきませんか?」
寄せていた身体を起こし、貌を見上げて微笑むルヴァに、こく、とゼフェルが頷く。
「どうせなら……泊まっていきたいけど…駄目、か?」
離れようとする頤へ手を伸ばして動きを留め、頬に口付けながらゼフェルがそっと囁いた。かあっと紅くなる頬へもうひとつ落とされる、口付け。
小さく返される頷きに嬉しそうに紅い瞳が細められ、肩を抱き寄せもう一度しっかりと抱き締めた。
鏡の前へと移動し、椅子に座らせたルヴァのターバンに、ゼフェル自ら止め具を付ける。
「緑の服が多いからさ……金の方が映えると思って」
鏡に映る自分の姿を見ながら嬉しそうに微笑むルヴァに、ゼフェルが照れたような笑みを零した。
懊悩を生み出した疑念はあっという間に氷解し、緩やかな倖せだけがふたりを包み込む。
久しぶりに訪れた穏やかな夜が、ふたりの時間を柔らかく見守っていた。
<FIN>
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