涙 |
この感情は、いったいなんなんでしょう。 どうして彼を見ていると………目が潤んでくるのでしょう。 私は……いったい、どうしてしまったのでしょう。 穏やかな昼下がり。もうすぐ勉強会の時間だというのに、まだゼフェルの姿が見えない。机の上に置いたテキストに手を乗せて、ルヴァは窓の外をぼんやりと眺めていた。どうしてだか、気持ちが落着かない。やり残した仕事でもあっただろうか。それとも、明日の会議の準備が終っていなかっただろうか。色々と考えを巡らせてみるけれど、思い当たることは無い。強いて言えば、どうしてゼフェルがまだ来ないのか、ということが気になっている。 最近はよく来てくれるようになっていたのに、また前のように気まぐれを起こしてしまったのだろうか。今日は、もう来ないのだろうか。そこまで考えて初めて、自分が残念だと思っていることに気がつく。来なければ来ないで、また後日改めて講義をすれば好いだけ。時間なら幾らでもある。 逢えなくて、淋しい………? そんな考えが浮かぶ自分に、首を傾げる。勉強会にちゃんと出てこないなんてことは、別に今に始まったことではない。約束したことは守らなければいけませんよ、と彼にとっては形式にしかなっていないらしい御小言を幾つか言って、そうしてまた日を改めて講義をする。今まではそうしてきた。 それが、どうして淋しいなんて思ってしまうんだろう。 と、玄関先が急ににぎやかになる。聞きなれた執事の声と……もうひとり。 「ルヴァ、悪りー、遅れたっっ」 ばたばたと廊下を駆けてくる元気な足音。とたんにルヴァの口元が緩む。かたん、と椅子から立ち上がり、扉近くで教え子を出迎えた。 「遅かったですねぇ。もう来ないのかと思いましたよ〜」 「なんだよ、昨日ちゃんと来るって言ったじゃんか。信じてなかったのかよ」 幾らか憮然とした表情でじいっとルヴァを睨む。慌ててその言葉を否定するルヴァににいっと微笑いかけ、ゼフェルはがたんと椅子に座った。隣りあうようにして座ると、がさがさとテキストを開けていくゼフェルを見ながら、自分の気持ちが落ち着いていくのを感じた。 此処最近、ゼフェルに逢うと気分が明るくなる。別段なにをする訳でもなくただ廊下ですれ違い声をかけられるだけで、どうしてだか上機嫌になる自分。逢えないと、ただそれだけで気分が沈んでしまう。一日会わないことなんて、今まで何度もあったはずなのに、どうして、と思う。その理由を考えても一向に解らないことが、また自分を混乱させていく。 ゼフェルに逢えるのが嬉しい、ということは確かに事実だった。 講義も一段落ついた所で、いつものようにルヴァが休憩を提案する。一も二も無くのってくるゼフェルに苦笑しながら、御茶の用意をするため隣室へ道具を取りに行った。御茶の時ルヴァばかりなにか食べてるのはずるい、と先回の勉強会の時に不満気に言ったため買い求めた菓子を取出す。ゼフェルでも食べられるように、と考えて取り寄せた辛めの菓子。試しに食べてみて、あまりの辛さに火を吹きそうになったことを思い出す。 「食べてくれますかねぇ〜」 二人分の菓子を菓子入れに盛りながら苦笑する。ポットとカップを暖めて、ゼフェルにはコーヒーを、自分には緑茶をそれぞれいれた。大好きな緑茶の香りにふんわりと微笑みながら、トレイに乗せて部屋に戻る。 「ゼフェル、御茶がはいりましたよ〜…………ゼフェル?」 いつもの元気の好い返事が返ってこないことに首を傾げて、椅子の向こうを覗き込む。と、机の上に突っ伏して眠っているゼフェルを見つけた。安らかな寝顔と規則正しい吐息。 「あ〜……また、夜更かししていたんですかねぇ」 苦笑と共にトレイをテーブルに置き、眠るゼフェルの邪魔にならない所にコーヒーを、自分の席に緑茶を、そしてテーブルの中央に菓子入れを置いて、席に座った。いれたばかりの熱い御茶を、息で吹き冷ましながらひとくち飲む。ふと、隣りで眠るゼフェルの顔を見た。強い光を放つ紅い瞳が瞼に遮られて、普段より幾分幼く見える。いつもの利かん気が失せた表情に、思わず笑みが零れた。瞬間、視界がぼやけた。 「あ……」 頬に、なにかが伝う。 指を頬に滑らせてみる。目の前に持ってきた指が、濡れていた。 「どうして……」 はらはらと涙が零れ落ちる。 「…これは……涙、でしょうか…………」 俯いた頬から手の平へ、雫が落ちていく。どうして、と小さく呟いてもう一度ゼフェルの顔を見る。再びはらはらと涙が溢れた。 「これが、涙というものなんですねぇ……」 懐の布を取出してそっと目元を押さえる。どこか満たされたような、不思議な感覚が身体を覆っていく。ほう、と溜息をつくと、胸がきゅうっと締め付けられた。身に覚えの無い感覚に首を傾げる。そうっと手を伸ばして銀糸に触れた。そのままゆっくりと、起こしてしまわないように髪を梳く。 「貴方と居ると、自分が解らなくなるんですよ……どうしてなんですかねぇ」 涙を流しながら、ゆるりと微笑んだ。 ゼフェルとこのまま一緒に居れば、この涙の意味が解るのだろうか。理解できないこの感覚が理解できるのだろうか。それとも……もっと解らなくなったりするのだろうか。 「それでも……ゼフェル、貴方と一緒に居てみたいと…思うんですよ」 その先にあるものが、喩え孤独であっても。今は、その隣りに居て彼の姿を見詰めていたい。 「わたしが傍に居ることを…貴方は許してくださいますか?」 軽く頬に触れる。 失うことに怯えて、壊してしまうことを怖れて、遠ざかっていた人肌。自分でも解らない感情を掘り起こしたゼフェルに、興味が募る。この想いの先を、どうしても知りたい。 「こんなわたしでも…貴方は………」 言葉の続きを喉の奥に呑み込み、穏やかな微笑みと共に涙を流しながら、ルヴァはゼフェルの寝顔を見詰め続けていた。 Fin |