2009.01.05 UP ― 犬+主

消えた涙の行方
〜1〜


 引き戸をがらりと開ける先生に続いて、生物準備室へと入る。お世辞にもきれいとは言えない室内はあの頃のままだった。まるで、この部屋だけ時間が止まっているようだ。
「そこのガスバーナーと三脚を使え。ビーカーは棚にある」
「はい」
 辺りを見回し、示された先に使い込まれているガスバーナーと三脚を見つけて頷いた。戸棚から適当な大きさのビーカーを取り出して流しの隣に置く。水を入れる前に洗った方がいいだろうと腕を捲り、蛇口を捻る。
「好きな方を喰え」
 スポンジに洗剤を含ませてビーカーを洗っていると、隣にふたつカップラーメンを置かれた。はい、と頷き、きれいに洗ったビーカーの外側を手近に置いてあった布で拭いた。カップラーメンをふたつ作るのだから、と考えながら水を入れ、三脚の上に金網を乗せて、ビーカーを置く。
 そういえばガスバーナーの調整って、どうやるんだったっけ。ちら、と先生の方を見遣る。山の様に積み上げられた本の隙間からプリントを引っ張り出している背中に訊こうと口を開きかけたけれど、それはなんだか格好悪いので止めた。遠い記憶を手繰りながら元栓を開き、調節ねじを緩めて火を点ける。
 部屋の隅からパイプ椅子を持ち出してガスバーナーの置かれた台の傍へ置き、腰を下ろして置かれたカップラーメンを手に取る。塩としょうゆ、どちらがいいかとためつすがめつして見ていると、不意に気配を感じ視線を上げた。
「空気の量が少ない」
「ぇ…あ、はい」
 炎の状態がよくなかったらしい。慌てて調整し直そうと手を伸ばしたけれど、それを止められた。場所を空けろと顎をしゃくられ、椅子ごと脇へと避ける。先生が慣れた手つきで調節ねじをくるくると回すと、炎の先にあったオレンジ色の光が見る間に消え、炎の内側に小さな青い炎が現れた。さすが現役教師。
「これでいい。………なんだ、緋勇」
 調節ねじを弄る先生の、少し伏し目がちな横顔につい見入ってしまっていた。訝しげな顔でそう問いかけられてはっと我に返り、誤魔化すように笑ってみせる。
「やっぱり先生は先生だなぁ、って。そう思って見てただけです」
「…」
 よく判らん、といった顔で先生は俺の顔を数秒じっと見た後、何事もなかったかのようにくるりと背を向けた。本の山から引っ張り出したプリントをコピー機で増刷し始める。午後の授業の準備だろうか。はたと手に持ったままのカップラーメンを思い出し、もう一度見比べた。
「俺しょうゆ貰いますね」
「ああ」
 カップを覆っているフィルムを剥がして蓋を開け、かやくと粉末スープをあけて、湯が沸くのを待つ。
「先生、温度計どっかにないですか」
「そこまでしなくていい」
「えー」
 せっかくだからちょうど百度にしようと思ったのに、と呟くと、馬鹿か、と声が返ってきた。そのタイミングが本当にあの頃と同じで、なんだか嬉しくなった。



『お前の腕なら打撃と気功を鍛えるべきだ。術は向いていない。理解しろ。』
 先生にそう言われてしまった、そのことが悔しかった。自分の弱さを指摘された気がした。あの日の台詞を撤回させたいという一心で、本業の傍ら、昔馴染みの悪友達から呆れられるほど、術の腕を磨くことに入れ込んできた。
 先生にしてみれば、思いつきで言ってみただけの台詞だろう。きっと覚えてもいない。それはさっきの様子からしても明らかだった。
 それでも、先生は評価してくれた。十年越し、という俺のしつこさに呆れてなのかもしれないけれど、受け止めてくれた。結果は十点。一年で一点しか稼ぐことができていないなんて満点を狙うには絶望的過ぎるけれど、あの頃よりは巧くなった、と言ってくれた。
 その上、準備室へ来いと声を掛けてくれた。今回の件は、先生にしてみれば身に覚えのないことで、あのまま屋上にひとり取り残されても仕方ないと思っていたのに、昼飯を喰っていけと言ってくれた。
 お世辞とは無縁の、己に対して殆ど無関心だった先生からの言葉。それがこんなにも嬉しい。
 憧憬。目標。それだけではない何かが、自分の中に在るのかもしれない。それが、先生のたった一言に十年間もこだわり続けられた理由、なのかもしれない。ぼんやりとそう思った。



 沸騰した湯をカップへ注ぎ、待つこと3分。
「先生、ラーメンできましたよ」
「ああ」
 戸棚からシャーレや顕微鏡の箱を取り出していた先生が手を休め、引き出しから割り箸をふたつ取り出してきた。差し出された割り箸を受け取り、塩味のカップラーメンを手渡す。肘掛つきの椅子に腰を下ろした先生がカップラーメンの蓋をぴりりと取り去る姿を見てから、自分のカップラーメンへと手を伸ばした。
 学生だった頃には、補修代わりに実験器具の片付けを手伝ったりしたことはあるけれど、こんな風に一緒に何かを食べるということは無かった。卒業生だからこその特権、待遇なのかもしれないけれど、先生はあんまりそういうことをしないような気がする。少しだけ、自分が特別になったような、―――否、特別だといいな、という期待か。勘違いかもしれないけれど、少しだけそんな気分に浸っても、罰は当たらないだろう。



 ラーメンを食べ終えた後、昼食のお礼と称して午後の授業の準備を手伝い、隣の準備室から先生の授業を久しぶりに聞いた。
 どこか気だるい感じの喋り方や授業の進め方は十年前と殆ど変わらない。当時の記憶を手繰り思い出しながらくすくすと笑っていると、授業が終わったらしく日直の号令が聞こえてきた。
 生物室から戻ってきた先生が、笑っている俺を見て僅かに眉根を寄せる。
「…何を笑っている」
「先生、十年前と変わってないなと思って。…懐かしくなりました」
 そう答えると、戸口で先生の動きが止まった。どこか違和感を覚えて笑みを収めた俺の目の前を、先生は口の端を笑みに似た形にほんの僅か吊り上げ、教卓へと向かう。
「ああ。…そうだな」
「…?」
 何か胸騒ぎがして、教科書を片付ける背中をじっと見詰めた。
「後片付けもやっていくんだろう」
「! はい、…濡れてるのは、拭いて棚へしまえばいいですよね」
「ああ。拭くときは生物室の窓際に干してある布ウエスを使え。…それが終わったら顕微鏡の備品チェックだ」
「はい」
 それきり此方を向く気配のない先生の様子に仕方なく立ち上がる。何か失言をしてしまったような気がしたけれど、よく判らなかった。取り敢えず、今やってしまえることからやろう。どこかがらんとした印象の生物室をぐるりと眺めてから、よし、と呟いて腕まくりをした。
 実験卓に備え付けられている器具置き場をひとつひとつ回り、学生が洗った器具の状態を見ていく。シャーレ、プレパラート、ホールピペット。汚れが残っているものをその場へ残して、きれいなものだけを籠に入れる。準備室へ戻り壁際に備え付けられている棚へ、張ってあるラベルの通り、ひとつひとつ丁寧に収めていく。
 生物室へ戻ろうとする途中、先生が赤ペンを持ち紙束を机の上に置いてじっと見ていることに気付いた。
「先生、それ何ですか」
「授業の途中でやった小テストだ」
 枚数はざっと見て三十枚あるかないか。これくらいなら器具を片付ける間に終わるだろう。
「その採点終わったら今日はもうアパートに帰りますよね」
「ああ」
 淡々と採点をしていく手許を眺めながら、ふと思いついて横顔を覗き込む。
「俺、遊びに行ってもいいですか?」
「駄目だ」
 即答で却下されて少しへこむ。…確かに今まで先生の家へ遊びに行ったことはないけれど、でも。
「先生、即答とか冷たすぎる」
 在学中、先生の居るこの準備室にはかなり通い詰めた気がするし、遊びに行くくらい許してくれてもいいような気がする。
「御前が来る理由が判らん」
 かたりと赤ペンが机の上に置かれた。肘掛に体重を預けるようにして先生が俺の方を振り返る。
 真っ直ぐに向けられる目は、不可解だと言わんばかりの色を湛えていた。分不相応な望みを口にしたような気分になる。いや、でも、それほどの望みでもないはずだ。と少し気後れしそうになる自分を奮い立たせるように手を握り締め、先生の目を真っ直ぐに見返した。
「久しぶりに…先生とゆっくり話したいなと思っただけです。卒業してから十年ですよ? 酒飲みながらとか、…」
 俺の言葉を聞き、先生の目が僅かに大きくなった。意外だ、とでも言いたげな様子は、けれど先刻よりは拒絶されていないような気がして、ここぞとばかりに身を乗り出す。
「俺、酒買って来ますし、料理だって簡単なのでよければ作りますから。…悪くない提案、だと思いますけど―――」
 少し思案気に逸らされた視線を追う。嫌がられているなら止めた方がいいと思うけれど、様子を見る限りではそういう訳でもないようだった。
 それにしても、幾ら十年ぶりだといっても犬神先生相手に俺はどうしてこんなに食い下がっているのだろう。自分でもよく判らない。
「…そうだな」
 頷きながら先生が顔を上げた。表情は相変わらず無表情に近いのだけれど、ほんの僅か、口許が笑っているような、そんな気がした。
「なら、早く片付けを終えろ。採点終えるより遅かったら置いていくからな」
「―――ッ、はい…!」
 なんだかとても嬉しくて、思わずスキップをしそうになりながら、残りの実験道具を片付けに俺は生物室へと向かった。



<つづく>

ススム

カエル